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運命のパラドックス/変わるもの・変わらないもの

運命のパラドックス

"運命"は存在するのだろうか。
一応運命とは何かをGoogleで検索すると、「人間の意志に関わらず、身にめぐってくる吉凶禍福」とある。

ぼくには、人間に起きる出来事がすべて運命であるか、すべて運命ではないかのいずれかなのではないかと思える。

ある出来事が運命的に思えたとする。それが他の出来事と比較して運命だと感じられる根拠はなんなのであろうか。
奇跡的に出会った異性を「運命の相手」とも称するが、どんな相手でも出会いは奇跡的な確率であり、誰か1人を運命として切り取ることはできないような気がする。

「運命が変わった」という言い回しにも違和感を覚えてしまう。そもそも未来はわからないのに、なぜ自分の行動で未来が変わったとわかるのだろう。

これらの人間の感覚から考えられることは、「人間は運命とそうではない出来事を切り分けている」ということである。
しかし、運命の定義に立ち返ると、「人間の意志に関わらず」とある。
つまり、我々が"これは運命だ"と考えること自体に、人間の意志が既に介在してしまっているという矛盾が生じているということになる。

この矛盾を解消するのが、「すべての出来事は運命である」と考えるか「すべての出来事は運命ではない」と考えることである。

ぼくは前者だと考えるようにしている。なぜかというとその方が人生を楽に過ごせるからである。
人生には失敗が付き物である。不幸にも努力の才能がなかったぼくは、その失敗をいちいち自分のせい(もしくは運命以外のせい)にすると、もはや自分が何もできないダメ人間だと思えてきてしまうのである。

あらゆることを運命のせいにすることは、他責的で言い訳のように思えるかもしれない。ただ、そのおかげで他人にも怒らずに済むし、泰然自若ともいえるだろうか、物事に動じずに済むのである。

こういう哲学的なテーマはおそらく先人が嫌というほど語っているだろうからここまでにしておく。

変わっていくもの・変わらないもの

先日、高校時代毎日通っていた立川に久しぶりに行った。
些細なところではあるが、街の店が新しくなっていたり無くなっていたり、あるいは変わっていない様子に少々の感動を覚えたのでいくつか紹介。

①魂心家 立川店

ニンニクで味変しないと途中で飽きてしまう
左側の建物に入っていた

部活のあと毎週のように行っていた資本系の家系ラーメン屋。スープを完飲すると"まくり券"と呼ばれるクーポンがもらえる。気が狂ってた高校生たちは家系のギトギトのスープを毎回飲み干し、この券を集めていた。
いつだったか潰れてしまい、跡地には何店かラーメン屋が入ったのち飲み屋になっていた。
思い出のラーメン屋ではあるが、近くに同じ資本の「壱七家」があり、潰れたのちはそちらに通っていた。

②TSUTAYA 立川南口店

定期的に「CDレンタル10本で1000円」というキャンペーンをやっており、それがあるたびにこの店に行き大量のCDを借りて帰った。
ここでさまざまなアーティストのCDを借りたが、結局今でも聴くのは一握りくらいだろうか。
友達と放課後に行ってみんなで合わせて10本借りたのも懐かしい出来事である。
TSUTAYAに限らずだが、CDレンタル業は斜陽も斜陽だろう。立川店の閉店をもって少なくともぼくの生活圏にあるTSUTAYAはすべて潰れてしまった。

③マクドナルド 立川南口店

1限に間に合わなかった日は時間を潰していたマック。
というのも、遅刻(授業中に登校する)を学期間に何度かすると学期末に反省文を書かされるというシステムがあったためである。
欠時(授業を1コマ欠席する)であれば、2限から登校しても遅刻にはならない。であればどちらが得なのか一目瞭然である。
ここでどれだけ数学の問題集を解いても、毎回テストの点数は赤点スレスレで補習に呼ばれていたが。

④通学路

8:30登校なので、毎朝8:27くらいに猛ダッシュしていた道路。周りに建っている建物もあまり変わっておらず、懐かしい気持ちになった。
なぜ人は時が経つにつれて時間ギリギリに行動するようになってしまうのだろうか。入学当初は8:10くらいには登校していたはずである。
しかし、しばらくしたら"これを逃したら遅刻"という電車でこの道路を猛ダッシュして登校するか、それよりも後の電車に乗り1限中は優雅に朝マックを嗜むということになってしまった。

来年からは物心ついたときからずっと住んでいた地元を離れることになろう。
久しぶりに訪れる地元は、たかだか3年通っただけの立川よりもはるかに懐かしい思いになるのだろうと思うと、それも少し楽しみである。

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