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53、吉本隆明・埴谷雄高・柄谷行人の3本の巨樹をご存じですか


日本人の誰もが解っていながらゼッタイ言わず、文章にもしないことを、誰かが口にして何等かの文章の痕跡は残さなければ、と思う。日本の言論人も卑怯だし、学者も臆病である。
無条件降伏の敗戦後、愛国少年や愛国者は、否応なく自らの「戦争責任」に向き合うこととなった。信じた道だと開き直る勇気もない、一方みっともない言い訳はしたくない、正直困り果てていたのである。(因みに、無条件降伏とは、何でも言うことを聞きますので命だけは助けてください、という命乞いのことである)
その間の経緯や概観について、私の本棚の1/3を占拠している表題の3名の著作や言動を通史として話せば、だれも書かない「日本史の穴埋め」にはなるはずなので、以下駄弁を振るうことにしたい。
さて、戦後のこんな空気感の中、吉本の論理は、枝葉末節を除き大雑把に言えば、<知らされていなかったのだから大衆・庶民に戦争責任はない>という「大衆免罪論」であった。
多くは待ってましたとばかりに、この「免罪符」に飛びついた。一世を風靡し、反省の不得意な日本人の多くは、これを「守り札」として諸分野で後ろは振り向かずひたすら前進を始めた。「吉本経の信者」が日本の言論界の一部を席捲した。
しかし、そう世間は甘くない、粗い駄論がいつまでも通用するはずがない。
安い原価・安い労働力を漁る、日本資本主義と国家資本主義の世界各地における「悪さ・あくどさ」が、目立ち始めたのである。しかも、バナナだカカオだ綿花だと後進国の全てを買い叩く情報も、隠されることなく、同時に広く世界を駆け巡ることとなった。もはや、「大衆は知らない」の偽善と論理が通用しなくなる時代が到来したのである。
埴谷雄高氏はアナーキスト特有の潔癖感から、吉本たちに「それはないゼ」と流れに竿をさした。当然同調者も出た。極左では、「東アジア反日武装戦線」が、資本主義的悪さをするとして該当企業の爆破行動に走った。
そもそも無理があった「大衆免罪論」の終焉である。さすがの吉本の「神通力」も役目?を終えたのである。(ただ、吉本隆明氏の功績は、これで全否定されるほど、ヤワなものでは断じてない。詩歌・歌謡・言語・哲学等々、様々な分野で先導的な役割を果たしたことは、万人の認めるところである)
さて、拙著「オケラの戯言365話」では、吉本・埴谷の両名はくどいほど取り上げたが、一番よく読んでいるコミュニストにして哲学者の柄谷行人氏については、一行も触れていない。
庶民目線と庶民依拠にトコトン拘りながら、政治的には庶民を100%は信じない私と、ブント(BUND)の論客・生真面目な左翼にして真のコミュニストであり100%庶民を信ずる柄谷とは、最後の結論部分で必ず意見の相違をみるからである。
私を始め庶民は日々の生活に追われ、「三度の飯が食えれば御の字」と考える生き物である。時にポピュリストに熱狂したり強きについたりするが、そもそも「全体」などどうでも良く、政治・統治には無関心で、話し合い・協議・討議の時間はメンドウで、もし誰かが代行してくれるのならそれがベストと内心思っている。それより、娯楽・飲酒・束の間の息抜きに時間を割きたいのである。
(事実、世界各地の「○○の春」と呼称される庶民・大衆の政治的蜂起は、その精神と統治能力の維持・継続が出来ず、いずれも失敗に終わっている。最も意地悪く言えば、我々庶民には「ガラではなかった」ということになるのかも知れない)
世界の哲学者柄谷氏の生真面目な大衆信頼と大衆統治の理論と理想は、今までも今後も、どうも無理に思えて仕方がない。残念だが、現実の政治の世界では、別のリーダー「格」が必要であると、私は考えてしまう。
翻って、勝つか負けるかの資本主義は厄介である。負ければ、国家として所属員を養えない。また、庶民が職を得るためには、資本の命ずる行動に「歯車」として従わねばならない。資本のやっている行動の原理が分かっていても、歯車として従わねば生活は成り立たない。かつての「不知による大衆免罪論」に代わって、またしても「資本主義の歯車免罪論」が出てくる余地がここにあるのである。
我々庶民・大衆にとっては、結果的には日本資本主義のいわば資本悪を共有し、地球上の様々な弱者から収奪することとなる。
さてさて、この新たな免罪論は、はたして有難く救いの神であろうか。あなたは、どう考えるか。

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