私流解釈 劇団☆新感線「ミナト町純情オセロ~月がとっても慕情篇」(その5 これで最後)

【四半世紀のアイドルファンが想うこと★V6★ vol.184】


前回まで(過去記事のリンクはページ下)、三宅健くん主演の劇団☆新感線の舞台「ミナト町純情オセロ~月がとっても慕情篇」を私流に解釈してきた。

なぜ三宅健くんが主役オセロに配役されたのか

さて、ここで推しについて考察。
なぜ三宅健くんが主役に配役されたのか。

今回は推しのジャニーズ事務所所属最後の舞台なので、頑張ってチケット取って複数回観に行った。
そして感じたが、推しのひいき目もあるかもしれないが、何回観ても、すごい悲劇なのに、彼が演じているとドロドロとしないのである。

健くんは、天然ピュアな雰囲気がある。その透明感が演じてもにじみ出ており、悲劇の救いようのないドロドロをうまく相殺している。

健くんは、テレビのバラエティ番組を見てると、好きに発言し、時には空気を読まない発言もし(健くんごめんね)、大物とも物怖じしない。

ただ、ファンからすると、健くんは天然ピュアだけではないと長年感じていた。もちろん私は健くんの友達でもなんでもないが、ファンの執念の長年の観察から、かなりの悲哀、葛藤、不安を抱えているように見えるのだ。

悲哀、そして哀愁が、彼の明るさの裏から感じられてならないのだ。
それは、若い時から芸能界という厳しい世界で生きてきて、大人の勝手な思惑を見てきてそこで生き抜いてきたからかもしれないし、アイドルとして自身の恋愛も自由にはできないし、それに健くんがとても大好きだったV6の解散も重なった。

私がすごいと思ったのは、この舞台でアイ子役を演じた高田聖子さんの健くんへの見方の秀逸さだ。

三宅くんとは共演するのは初めてですが、(中略)キラキラしたアイドルというより、(中略)こうしてご一緒してみると孤独感をまとっている感じがさらにミステリアスです。
別に誰ともしゃべらないとか、そういうことじゃないんですよ。なにか寂しげで、ジェームズ・ディーンみたいな感じ。台本には「南米の太陽のような」とオセロのことが描写されたりしていますが、そいういう陽の空気感というより、常に影がうっすらかかっているような感じでしょうか。だから心の奥底に何かを抱いたままじっと人の話を聞き、ちゃんとそれに答える不思議な魅力をたたえた人という印象です。

「ミナト町純情オセロ~月がとっても慕情篇」パンフレット
高田聖子さんのインタビューより

さすが劇団☆新感線の役者としてキャリアのある高田さんだと感嘆した。初めての共演で、ここまで見抜くとは、人間を演じる役者さんの人間洞察力はやはりすごい。

そういう意味では、健くんの今回のオセロ役ははまり役である。オセロは反社会的勢力にしてはとてもピュアなキャラクターだが、父の非業の死、ハーフとして反社会的勢力以外に居場所がなかったなどの寂しさも抱えていた。健くんのもつ寂しさが、オセロの寂しさをも醸し出していた。

そういった意味では、健くんがオセロ役を演じることは、抜群の配役だった。いのうえさん初めとした劇団☆新感線はやはりスゴイ。
このような抜群の配役を、健くんのジャニーズ事務所所属の最後の舞台に配役していただいたことに感謝である。

そして、健くんが大千秋楽のカーテンコールで、悲劇だけど「愛の舞台だと思って演じてました」と言ってた。健くんはこの舞台をただの悲劇にはしなかった。底辺に愛を流していたのだ。
これが、この舞台をただの悲劇にせず、どこか透明感を与えるものになっていたのだと思う。

大千秋楽、そして健くんのジャニーズ事務所最後の仕事は、大阪城のところにある新しい劇場「COOL JAPAN PARK OSAKA WWホール」だ。健くんにとっては、V6時代に何度もコンサートで来てた大阪城ホールはすぐ近く。感慨深かっただろう。

以上、5回に渡って、健くん主演の舞台「ミナト町純情オセロ~月がとっても慕情篇」を私流に解釈してきたが、悲劇がなぜあるのか、いのうえひでのりさんの演出の意図、健くんの悲哀など色々と考えることができて楽しかった。劇団☆新感線というとんでもなくレベルの高いエンタメを見せてくれるコンテンツを何回も見せてくれることになった健くんに感謝である。

大千秋楽の翌日の5月2日から充電期間に入った健くん、さてお誕生日の7月2日は明日ですが、活動再開という嬉しいサプライズ、是非に待っておりますよ。

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