胎内記憶



 「お母さんのお腹の中にいた時の事、覚えてる?」
 上手にお話が出来るようになる、二、三歳の時に尋ねると答えてくれるらしい。四歳を過ぎると「覚えていない」とその記憶は消えてしまう。一生に一度だけしか聞けないと育児雑誌に書いてあった。
 長女幸恵が、もうすぐ三歳の誕生日を迎える五月の澄み渡る空の日曜日。胎内記憶を聞いてみることにした。
 隅田公園の芝生の上にシートを敷いて、楽しそうに遊んでいる幸恵を膝に乗せて、ぎゅう~っと抱きしめた後「ねえ、幸、幸はお母さんのお腹の中にいたときの事覚えてる?」そう優しく問いかけた。
「うん、覚えてるよ」
 幸恵はすぐに答えた。
「お腹の中はどんなだったの?」
「あのね、あったかくて、ピンク色だったよ」
 もっともっといろいろ聞きたいと思ったけれど、アゲハチョウを追いかけて幸恵は膝の上から飛び出していってしまった。
あったかい、ピンク色という答えに私はほっこりした。
 現在二十八歳で四歳の娘を育てるシングルマザーの幸恵。反抗期、中学でのいじめ、思春期、受験の失敗や就職と頭を抱えることがたくさんあった。私自身の離婚で生活することに精一杯でゆとりがなくなって、子供達に淋しい思いをさせたこともある。なにもかも嫌になって逃げ出したいと思ったことも……。
「お母さんのお腹の中はあったかくて、ピンク色」
 あの五月の日曜日。幸恵の胎内記憶が聞こえてくる。
私を母親にしてくれた、数え切れないほどの幸福を与えてくれた。まだまだ、頑張れるって小さな勇気が湧いてくる。
 幸恵が四歳を過ぎた頃、胎内記憶は薄れてしまうと育児雑誌に書いてあって事を思い出して、同じ質問をしてみた。
「そんなの覚えてないよ」
 雑誌の通りの答えが返ってきた。
「幸、お母さんのお腹の中、あったかくて、ピンク色らしいよ」
 幸恵は声を出して笑った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?