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他人を妬まない方法

ハイスペック

私は法律事務所に勤務しているので、仕事柄、いわゆる「ハイスペック」な人たちと出会う機会が多い。というよりも、そういう人たちに囲まれながら日々仕事をしている。

彼らは総じて家柄も良く、学歴も高く、弁護士になってから4~5年も経てば、若くして一般のサラリーマンの平均年収以上を稼ぐ。男性に限っていえば、容姿に恵まれた妻と可愛い子どもに恵まれ、立派な家や車も持ち、イベントシーズンには家族団らんで楽しい思い出作りに励む。旅行に行ったり、レジャーに行ったり。

私の周りは、そんな人で溢れている。

何度か懇親会に参加してみても、話して10分も経てば、嫌でも「持っているもの」の差を感じてしまい、だんだんと落ち込んでしまうのが常だ。ハイスペの友人はやはりハイスペなので、登場する知人友人の所属する会社名は、日経新聞の見出しにしょっちゅう登場するような大企業ばかりである。配偶者のレベルも高い。顔面偏差値はだいたい70以上と相場が決まっている。

「うちの妻が今月二人目を妊娠したんですよ」「GWは家族で伊豆へ行ったんですけど」「そういえば、〇〇くん(※会社の社長さんや大企業の社員)と飲んだときにさ……」

そんな会話に入り込めるわけもないので、自然と私の役割は彼らの「太鼓持ち」になるしかない。「へ~、おめでとうございます! 良かったですね!」「伊豆ですか。いいですね~」「へ~、先生は〇〇さんと仲がいいんですか。すごいな〜」

会が終わるころには、みじめさと劣等感で押しつぶされそうになり、全速力で逃げ出したくなる。それが懇親会後の私の常である。営業マンという人種はこういう会話を上手に切り回しているのかと思うと、本当に尊敬してしまう。

「天国に見えた」

黒澤明の「天国と地獄」という映画で、金持ちの主人公を羨むあまり誘拐事件を起こした青年(山崎努)のセリフに、次のようなものがある。

「僕のアパートは夏は暑くて寝られない。冬は寒くて寝られない。三畳間の窓の向こうから見えるあんたのお屋敷は、まるで天国に見えた。僕はあんたを憎んだ。憎んで、憎んで、とうとうその憎悪が生きがいにまでなった」

黒澤明「天国と地獄」

妬みに心を乗っ取られてしまった人間の心情を簡潔に言い表した台詞である。私たちにとって、スペックの高い人は常に「天国の住人」のように見える。

不幸に慰められるな

よく、人と比べてしまうことへの解決方法として、「人は人、自分は自分」「幸福そうに見える人でも、実は人目にはわからない苦労をしているものである」という言葉がある。

それは実際にその通りだけれど、前者は嫉妬に苛まれている人間にとっては、いわゆる「頭ではわかっているけれど」だし、後者は一見公平で客観的なものの見方をしているようでいて、実はあまりいい考え方じゃない。

「この人も実は苦労しているのだ」と思って安心するのは、つまり、その人の不幸によって慰められているという状態であり、人の不幸で慰藉される癖がついてしまうと、実際に本当に何不自由ない人を目の当たりにしたとき、反動でものすごい敵対心を持つようになってしまう。人の不幸を喜ぶようになり、人の幸せを恨むようになる。知らず知らずのうちに性格が捻じ曲がってしまう。

誰かの不幸は、別の誰かを慰めるためにあるものではない。人は人の不幸を素直に悲しむべきだし、喜びは自分の喜びとして祝福してあげなければいけない。

私も彼らの「幸せ」の一部

私は嫉妬に苦しみそうになったとき、「この私自身も、あの人の『幸せ』の一部なのだ」。関わりがない人のことであれば、「私がいれば、きっとあの人の幸せはもっと増えるはずだ」と思うようにしている。

具体的に私に何かができるということはない。根拠があるとすれば、まさにこの私自身の存在。私があるということ。それだけである。

かといって、まったくのデタラメかと言えば、必ずしもそうではあるまい。たとえば私がある人を羨むばかりに、その人をいじめたりすれば、その人の幸福はぐんと減ってしまう(若い女の子を虐めるお局などをイメージしてもらえばわかりやすいかも)。反対に、日々笑顔で応対する、困ったときには協力してあげる。そんなとき、この「私」はその人にとって立派な幸せの一部となることができる。

人が聞けば、ちょっと自信過剰に聞こえるかもしれない。「え、キモっ」と思うかもしれない(笑)。でも、他人が不幸に襲われている姿を見てホッとしたり、同情に擬した優越感を得るよりは遥かにマシである。私はそう思っている。

「〇〇ちゃんはイケメンで高収入で子煩悩の旦那さんがいて羨ましい」「〇〇さんはすごい人たちとばかり交流があって羨ましい」そう思っているとき、この「私自身」という存在は自分自身の中で完全に置き去りにされている。他人を誉めるばかりでなく、もう少し自分自身を誉めてあげても、認めてあげても、罰は当たるまい。

ちなみに、「羨ましいと思うなら、その人たちと同じレベルに行けるようにもっと努力すればいいじゃん」というアドバイスもあるが、承認欲求や優越感を得るための努力はいっときのカンフル剤にはなり得ても、自己肯定感を高めてはくれない。「越えなばと 思いし峠に来てみれば 行く先はなお山路なりけり」。人の欲望には限りがないのである。

何かを頑張りたいのであれば、それはあくまで自分自身を乗り越えるために頑張るべきなのであって、間違っても他人にマウントを取るためであってはいけない。世の中には他人の持ち物の値段までもをいちいち気にかける人間がいるが、どんなに努力しても、「良い」ものを得ても、それが他人と比べるための物差しになってしまっている限り、行きつく先はそういう人間像である。

この考え方をするようになってから、完全にではないにしろ、だいぶ気持ちが楽になった。私という存在を肯定的に捉えることができるようになった。

この発想に至るまでに、どれほど悩んだだろう。どれほど人を妬んだだろう。そしてこの苦しさを癒すために、どれほどの文学に頼ったことだろう。

生きている限り、人は自分と他人とを比べる生き物なので、これからも時折り苦しくなる場面に出会うことはあるかもしれないが、そのたびに、「私もこの人の幸せの一部なのだ」「私がいれば、この人の幸せはもっともっと増えるはずだ」と思いながら、今の、ありのままの自分を、まずはきちんと抱きしめてあげたいと思う。

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