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年齢=音楽業界歴!?オギャーと生まれたその日から...

 今から50余年前、私の父がそれまで勤めていた時計店のレコード売場(昔、時計店は貴金属やレコードを扱う店が多かったんです)から独立して、自身の店「ツモリレコード」を立ち上げたのが昭和36年の10月17日。そしてその翌日の10月18日に私は生まれました。

次男坊だったので...

 母にとっては2年前の兄に次ぐ二人目という事で慣れていたんでしょうね。産院で私を生むと直ぐに開店したばかりのお店を手伝い始めました。私はというとおくるみに包まれて、店の上がり框のところにポンと置かれて、たまにお乳呑んだり、客に愛想を振りまいたりしていたようです。
 店には常に音楽が流れていましたから、生まれたその日から商業目的の音楽を聴きながら育ったという事で、つまり年齢=音楽業界歴ですね(笑)
 以来ピアノを習い、父の管理していたオーケストラでヴァイオリンやヴィオラを演奏し、その途中でハマったジャズ、ロック、歌謡曲、クラシックといったあらゆる音楽を聴き、ギターも独学で覚えバンドもやり、本当に音楽漬けの日々でした。

小中高の頃

 家がレコード屋という利点を生かし、聴きたいレコードがあると店で掛けてもらったり、気に入ったものは夜中にこっそりとカセットテープに録音したりしていました。今だから告白しますが、学校の友達が買ったレコードは殆ど私が一回針を落としたものだったのです。貸しレコード屋が誕生するのはそれからウン十年後の事なので、まぁ恵まれていたと言えます。

最初に買ったレコードは?

 とはいえ、本当に好きなレコードは手元に置いておきたいのでお小遣いで購入していました。最初に買ったのは「プラターズのすべて」というベスト盤かな?"オンリー・ユー"”煙が目に染みる"は何回聴いたか分かりません。
 余談ですがレコードの値段というのは長きに渡りあまり変動していないのです。当時でもアルバムは2,500~3,000円、シングルは400~500円くらいでした。小学生の時のお小遣いが確か月800円だったので、兄貴と出し合って2~3か月に1枚アルバムが買えるか買えないかくらい。
 小学校の頃、カーペンターズに出会い一遍に好きになりましたが、そんな訳でオリジナルアルバムには中々手が出ず、ヒット曲満載の2枚組ベスト盤を兄貴と購入しました。いまだ手元にあるこのアルバムを見ると2枚組で3,200円とあります。飲まず食わずで小遣い2か月分×二人分ですね(笑)

音楽と記憶

 ビートルズも赤盤・青盤という彼らのヒット曲を前後期に分けて並べたベスト盤を買ったので、未だにその曲順で脳内再生します。どなたにも経験があると思いますが、小中高くらいの年齢で聴いた曲を(私の場合はプラターズやカーペンターズ)いま聴き返すと当時の生活を鮮明に思い出すことがあります。
 実は側頭葉には聴覚を司る器官と共に古い記憶が仕舞われていて、そこに懐かしい音楽を通すと一緒に記憶がポロンと出てくることを米国カルフォルニア大学が解明し2009年に学術誌発表されています。視覚や嗅覚から過去を思い出すこともありますが、音楽を聴く事で昔を思い出すのは側頭葉の働きが関係していたのですね。

その後の音楽業界歴

 音楽漬けのまま大学生になっていた私ですが、将来はアナウンサーになることを目指していました。幾つかテレビ局の試験など受けていたその頃、実家に帰省すると父が「俺の代で店は閉める」と言い出しました。継ぐものが居ないという理由でした。兄は既に音楽家(プロドラマー)として活躍していましたので難しく、熟考の末私が継ぐことにしました。当時レコード店を継ぐ者はレコード会社で数年丁稚奉公するという風習があり東芝EMIという会社で営業部配属になりました。

人生は奇異なもの?

 東芝EMIで数年勤めた頃、久しぶりに実家に顔を出すとなんと兄が店を切り盛りしています。ビックリして問うと、交通事故に遭いむち打ちが治らずドラマーが続けられなくなり、父に相談して店を手伝っていると。
 その頃、私はレコード会社の仕事が面白くなってきていて、営業の次は宣伝をやりたいと思っていた矢先でしたので「継がなくて良いのなら、このままレコード会社で働きたい」と父に話し了解を得て、丁度宣伝マンを募集していたワーナーミュージックに転職しました。東芝EMIには6年間お世話になりました。
 ワーナーには10年間在籍し邦楽宣伝、洋楽宣伝、洋楽制作に携わり、最後はAtlanticとELEKTRAレーベルの日本のレーベルマネージャーまで務めました

脱北し南に渡る

 当時ワーナーミュージックの社屋は北青山にありました。そんなある日246を隔てて南青山に社屋を構えていたエイベックスの依田会長(当時)から、オトナのエイベックスというレーベルを立ち上げたので来て欲しいという、いわばヘッドハンティングを受けました。ワーナーではレーベルマネージャーとして責任も負っていたので悩みましたが、未知だった「邦楽制作」の仕事に惹かれてエイベックスに移籍することにしました。

「音楽と記憶」を描いた米ドキュメンタリー映画との出会い

 オトナのエイベックスでは寺尾聰さん、水谷豊さん、谷村新司さん、野口五郎さんなどのアルバムをリリースしたり、日本コカ・コーラのTVCM集DVDで第50回日本レコード大賞企画賞を頂いたりしました。
 その後新たに立ち上がった企画開発部の部長を務め、そこでリリースした
「TRF イージー・ドゥ・ダンササイズ」が累計350万枚を超える大ヒットとなりました。
 そんなある日、偶然米ドキュメンタリー映画「パーソナルソング」を観て、天啓ともいえる衝撃を受けました。子供の頃聴いていた音楽で記憶を取り戻すのはコレだったんだ、そして音楽で人類の敵「認知症」の予防や進行抑制が出来るかもしれない、という思いがふつふつと沸き上がり独自研究を始め、独立・起業を決意しました。エイベックスには15年間お世話になりました。
 起業し立ち上げた会社名は「ツモリレコード株式会社」と名付けました。実はこの数年前に兄も父も他界し店もたたんでいて「ツモリレコード」という屋号は宙に浮いていたのです。結局「継いだ」ことになりましたね(笑)
 因みに会社設立は私の誕生日の”翌日”の10月19日です。

「日本回想療法学会」との出会い

 さて、音楽で記憶を取り戻すと一口に言っても、その人に合った「パーソナルソング」を探し出すのは容易ではありません。件の映画でもその点の苦労が多く描かれていました。
 そんな研究中に「特別非営利活動法人 日本回想療法学会」で心療回想士の資格を獲った際にADL記憶について学びました。ADLとは日常生活動作(Activities of Daily Living)という食事・排せつ・衛生を保つという人間の基本動作の事で、神経系の発達がほぼ完了するという12歳に前後3年の幅を持たせた10~15歳の記憶です。ADL記憶を取り戻すと、日常生活動作も維持されるという事で、近年認知症対策の分野で研究が進められています。

「パーソナルソング・メソッド」の誕生

 ADL記憶を知り、ふと思いつきました。対象者が10~15歳の頃聴いていた音楽を聴かせれば記憶を喚起しやすいのではないだろうか、と。
 そこで昭和初期から現代にいたるまで各年に流行った曲を一覧表にまとめ、各曲のCDを準備して高齢者施設や商業施設に協力をお願いして300人以上の高齢者に年齢に合わせて試聴してもらったところ映画同様、時にはそれ以上の驚くべき反応が次々に起こりました。
 この実験では更に「当時流れていたオリジナル音源であること」の重要性も浮かび上がってきました。他の歌手のカバーや、同じ歌手でも後年歌い直した音源に比べ、オリジナル音源で聴かせた方の反応が桁違いだったのです。側頭葉に仕舞われた記憶の扉を開けるカギは「当時聴いていたそのものの音楽」だったのですね。
 こうして「ADL記憶×オリジナル音源」をベースにした「パーソナルソング・メソッド」が誕生しました。これを実施する際にこれまで障壁となっていた著作権の問題もJASRACにきちんと相談して解消しています。この点ではこれまでのレコード会社の経験がとても役に立ちました。

「パーソナルソング・メソッド」のこれから

 認知症の定義は「加齢等により、脳細胞が減少し、記憶を失っていく事で日常生活に支障が出る症状」です。言い換えると日常生活に支障が出なければ認知症とは言いません。例えば認知機能が衰えている高齢者でも、情動面(喜怒哀楽などの感情)が活発で有れば、支障なく日常生活を送れているケースがあります。
 ところが、現在の認知症検査は認知機能しか測っていないので、こういった高齢者も「認知症」に認定されてしまいます。そこで「パーソナルソング・メソッド」を用いて情動に訴えることで得られる反応、例えば「笑顔」などを指数化して認知機能検査にプラスした新たな指標を作ろうと現在動いています。
 この新たな認知症指標が出来れば、高齢者の尊厳を守りながら「日常生活を送る」という事を基準にしたケアが出来るようになるのではないかと考えています。

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