見出し画像

賢治と中也について(お題箱から)

※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。
※単行本のネタバレあります。

頂いたお題はこちら:
「探偵社から一人、マフィアに移籍」と聞いてからずっと移籍するのは賢治くんだと思ってましたし今も思ってます。

理由はいくつかあります。

まず、太宰さんと芥川さんが史実と逆転した関係になっているのを考慮すると、史実で宮沢賢治を尊敬して身銭切ってまで他人に布教していた中原という関係も逆転させて師弟関係を築くことは自然だなあと思うからです。

二つ目に、二人ともある種の「現人神」と言える存在であることです。中原はかつてアラハバキと呼ばれていましたし、賢治くんは漫画の方で「彼の怒りは災害のようなもの」と国木田さんがおっしゃっていました。災害や厄災は古来、神の怒りが引き起こすものと考えられていたことを考慮すると、賢治くんもあの村における一種の現人神と言えるのでは無いかと思いました。その上で、感情や切迫感で異能を操作している現状を鑑みると、中原という先人による指導が必要不可欠と思えます。賢治くんの暴走を止められるのも中原くらいしか作中にはいなさそうです。太宰さんは異能無効化があると言えど、純粋に異能力なしの賢治くんの力も強ければ止めようが有りませんから。

さらに言えば、賢治くんは他のメンツに比べると探偵社に縛られる理由があまり無くマフィアとの禍根もないようにも思います。探偵社に入った理由は社長にスカウトされたから。マフィアとの禍根はせいぜい中原と対峙したこととマフィアのロビーの床を剥がしたことくらい。

そう考えると賢治くんがマフィアになる場合に立ちはだかる壁もほぼ無く、引き入れはかなり容易に思えます。

難点があるとすれば早寝早起きなので活動のメインである夜は寝ちゃってることくらいですかね……?


お題を頂きありがとうございました!
マフィアに移籍するのが誰になるのか、皆さんそれぞれ持論をお持ちのようで見ているだけでもとても楽しいです~。
そしてお題主様は賢治くんだと!ずっと揺るがずに思っていらっしゃるのですね!賢治くんが移籍するのでは?というご意見は実は初めて拝見しましたので、興味深かったです。
史実の二人の関係性について知らない読者の方もいるかもしれませんし、賢治くんの異能についても理解を深めたいので、この場ではお題への返信を交えつつも史実を参照しながら考察を進めていきたいと思います。

■宮沢賢治と中原中也

この二人の関係性はお題主様がおっしゃっているように、中也が賢治の作品に惚れ込んで布教してまわっていたというエピソードがありますね。

生前の賢治は作品を広く発表する機会がほとんどなく、文壇でも詩壇でも存在自体をあまり知られていなかった。しかし文人たちのなかには、まだ無名だった彼を高く評価していた人もいた。中原中也もそのひとりだ。たまたま古本屋で『春と修羅』をみつけ、感銘を受けた中也はその場で即購入。それだけにとどまらず、同書を何冊も買い集めて仲間たちに配って回ったという。

『文豪聖地巡礼』 朝霧カフカ監修

また中也は、賢治が亡くなった後にようやく彼の名が世間に知れ渡ったことについてあまりにも遅すぎると嘆き、賢治が存命している間にもっと認められて然るべきだったと惜しんでいます。
二人の直接の交流はなかったようですが、中也は賢治の魅力にいち早く気付き、ずっと推し続けていたみたいですね。

こういった史実の背景から、お題主様は中也のいるマフィアに賢治くんが移籍すれば史実の再現に繋がる、と見込んでおられるものと拝察しています。
この二人が師弟になったらどんな会話が成り立つのか、めちゃくちゃ見てみたいですね!奔放でズレてる賢治の発言に毎度頭を抱える中也が目に浮かびます。

■二人が宿しているもの

お題主様もおっしゃっているように、この二人の異能力は桁違いであり他の異能者とは一線を画している感じがしますね。二人とも神の領域に近いものを宿している。そしてその設定は、史実とも繋がっているように思います。

中原中也については私よりもよっぽど詳しいフォロワーさんが沢山いるのであまり多くは語らないようにしますが、中也はダダイストとして有名ですよね。ダダイズムとは、既成概念や常識を否定してそれを破壊しようとする芸術活動であり、中也のダダイズムにおいてそれは既存の日本語体系や表現方法からの脱却を通じて表現されていたのではないかなと思います。
ゆあーんゆよーんゆやゆよんって中也のことを知る方なら一度は必ず聞いたことがある言葉ですが、こういった独特の日本語表現も既成概念の破壊というダダイスト的な姿勢から生み出されているものだと言われています。
文ストにおいて中也が破壊の限りを尽くす渾沌の化身として表現されているのは、中也が傾倒していたダダイズムを踏襲しているのかなあという感じがしています。

一方の賢治は大自然の躍動とともに生きた人でした。
賢治が生まれた年には明治三陸地震と明治三陸大津波が起こり、38mにも及ぶ津波が三陸地方を襲っています。賢治が亡くなった年にも同じように地震が発生し、再び三陸沿岸を大津波が襲いました。賢治は地震や津波とともに生まれ、地震や津波とともに亡くなった、というのは有名な話のようです。
賢治は荒ぶる自然に対する畏怖とともに、その大きなうねりの中に運命づけられた人間のちっぽけさを自覚し、限られた小さな命の中からいかにして宇宙規模の広がりを持つ「ほんとうのさいわい」をこころの中に見出していけるのかを考えた人でもありました。

破壊を愛した中也、渾沌を受容した賢治。このふたりのそれぞれの特性は異能力の設定にもよく反映されているなあと感じています。

■宮沢賢治と精神力

「これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道路線やらで、虹や月あかりからもらってきたのです」と賢治自身が言っているように賢治の作品の多くは自然の中から派生しています。
眼には見えない"自然の精"と交流する賢治の魂。その交流を通じて賢治は心の中に彼特有の自然の姿を築き上げていたようです。その賢治の心象風景は彼を取り囲んで徐々に拡大し、やがて現実世界の自然を覆うかのように包み込み、そうしてふたつは一体となっていく。賢治にとっての自然とは自分の外部にのみ存在するのではなく、自分自身の内部にまで無限に広がっていくものであり、内側の自然と外側の自然は繋がっていたのだと思います。

賢治は農業にも精通していましたが、農業は無から有を生み出す営みであり、収穫とは自然からの無償の贈り物です。
それは人間と植物との単なる共生に留まらず、大地をめぐる息吹の循環なのであり、還元し合い最後にはひとつとなって溶け合うもの。
文ストの賢治くんもその景色の中で生きているからこそ、生と死は意味付けを放棄され、善悪という幻想は生じる余地も与えられないままに沈黙する。日々贈り物を受け取り、時には与えられた分をそっくりそのまま捧げる、ただそれだけの慎ましやかな交換の世界が賢治くんを支配しているように思います。

ではこのような世界観において、人の精神力はどのように規定されるのか?
賢治くんの精神は一個の人間という枠組みをはるかに超えて、雄大な自然と同一化しているはずです。それはすなわち精神力の限界が、自然のもたらす渾沌の力と同等水準にあるということではないかなあと考えています。

23巻で賢治くんが鐡腸さんと戦ったとき、賢治くんは自分自身で暴走をとめたように見えます。
かつての回想でも誰かがとめた様子はなく、おそらく賢治くん自身が何かをきっかけにしてとめているのではないかなというのが私なりの見解です。
つまり賢治くんは、恐ろしいほどの混沌の力を自らの精神の力で制御できている。
「莫大な自然の渾沌の力を宿す異能力」、それを封じるために必要なのは「大自然の秩序を司るような人智を超えた精神力」。その両方が賢治くんの中に宿っているのでは?大自然の秩序というのはつまるところめぐる季節であり生まれては朽ちる動植物の循環であり、すなわち賢治くんの真髄である農業や果樹園の営みそのものであるともいえます。

なのでここはお題主様と考えが反対方向に行ってしまいましたが、賢治くんは十分に自分の異能の使い方をわきまえているのではないかなあというのが個人的な感想です。

もし賢治くんが移籍したら…月明りに照らされた静かな星空の下で畑仕事をする幻想的な賢治くんが見られるかも…?!賢治くん×夜の世界で、銀河鉄道の夜的な世界観も演出できそうでそれはそれでめちゃくちゃ魅力的ですね。

素敵なお題を頂きありがとうございました!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?