BEASTは登場人物が獣になったif世界

※この記事はマンガ文豪ストレイドッグスの考察です。
小説BEASTおよび映画BEASTのネタバレを含みます。

BEASTは芥川と敦の立場が反転したらのif世界として紹介されているが、おそらくこの物語の本当の姿は「登場人物が獣化したらどうなるかのif世界」だと思う。「BEAST」という題名の通りなのだが、その本質になかなか気付けず、筆者を含め映画を見て苦悩している仲間は多い。

獣とは制御不可能になって暴走する感情。
獣化する、つまり理性や道徳を失い、感情に振り回されることをテーマにしているということは、悲惨で荒れた結末になるのは当然なのだ。
むしろそうでなければ、獣化を肯定することになってしまうので、結末はネガティブなものしかありえない。

その前提で、改めて登場人物たちがどう獣化したかひとりひとり確認したいと思う。

敦は「恐怖」という獣
芥川は「復讐」という獣
太宰は「未練」という獣
中也は「憎しみ」という獣

どんな獣を追っていたかは人それぞれ解釈が異なるかもしれないが、彼らは全員何かしらの獣を追っていた。

一方、織田作は「己という獣を追うな」と言っている側なので獣化しておらず、ドスくんも至って冷静で優雅であった。
織田作は仏教でいう「空」の心の持ち主であり、ドスくんは神の声に従って生きているため、きっとこの2人は獣化しないのだろう。

文ストは理解が難しい言葉にこそ深いテーマが含まれており、BEASTの場合、それは織田作が言った「己という獣を追うな」だったんだと思う。
「己という獣」とは、自分を支配する感情が自分の全てだと思い込んでしまうこと、自分という存在がいつの間にか獣に置き換わっている状態だと推測できる。

BEASTはただむやみに闇を広げているわけでも、光を支える影として存在するわけでもない。
人が獣化したらどれだけ悲惨な結末を迎えるかを語ってくれており、それゆえに私たちはこの物語を戒めとして捉えなければならないと思う。

この物語は、人がいかに簡単に足を踏み外して獣という病に取り憑かれてしまうか、獣になった人がどれだけ容易く過ちを犯してしまうのか、そしてたった一つの要素を変えただけで人はここまで獣になってしまうものなのだということを教えてくれている。

そして獣になれば人生は取り返しがつかなくなり、それがどれだけ辛く壮絶な経験か、BEASTを見た人は心を持ってそれを実感できたわけである。
それはおそらく貴重な経験なのだろう。頭で知ることは簡単でも、心で何かを経験することって実は難しいものだから。

「悲惨」「絶望」そんな言葉が似合う物語であり、人の心を容赦なく傷つけるBEAST。しかしその裏には原作者が伝えたいと思っている本当のテーマが隠されているのかもしれない。
この物語の裏に隠された真意をしっかり受け止めて、BEASTという深い闇を正しく愛していけたらいいなと思う。


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