〈DA考察②〉異能力と原罪の関係について

※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。

映画DEAD APPLEのノベライズ本では、太宰が結晶体に触れて表面の結晶を無効化すると、中からリンゴが生まれると書かれている。
異能のあるべき姿がリンゴなのだとしたら、異能力は原罪と関係がありそうだ。

「異能力の正体を映画DAから読み解く」の考察で、異能力の源になっているのは本人の「感情」「欲望」「思想」ではないかと書いた。
この3つは一見それぞれバラバラのものに見えるけれども、すべてひとくくりにして「原罪」と表現してもいいのかもしれない。

そもそも人が原罪を負ったきっかけは蛇の誘惑ではあるものの、人間に直接的に変化をもたしたのは知恵の実であるリンゴ。
知恵の実に含まれていた「善悪を知る」「自分の価値観で物事を判断する」という作用こそが、人と他の生物を区別する要因になったと言えるだろう。

アダムとイブが知恵の実を食べた後に初めて感じたことは、裸が恥ずかしいということ。
羞恥心やら罪悪感やら復讐心やら嫉妬心やら、人の抱える感情は非常に複雑。
そういった感情が生まれるのは、人が自分の頭で思考し、色々なことをああでもないこうでもないと考え出したからである。

そして人は思考を持ったことで、理想の姿を考えたり、利益を勘定したり、未来を想像したり、後悔したりする。
他の動物がしないのに、人間だけがすることは、そのほとんどが思考する脳が発生源になっていると言ってもいいかもしれない。
そのため、感情や思想が凝縮して力となったものが異能力であるならば、異能力とは知恵の実が形を成したものであり、リンゴの姿をしている。そういった解釈ができそうだ。

では敦の異能力はどうだろうか。
敦の異能力の源は「死への恐怖」だと思われる。
しかし死への恐怖というのは人間だけが持っているわけではなく、すべての生命が生まれ持っているもの。敦の異能力は人間という枠から飛び出しているし、そもそも思考が介在していないので原罪とは無関係。
だから敦の異能力の結晶体にはリンゴが入っておらず、中のリンゴが赤く透けて見えないので、中身が空っぽの青白い結晶体という設定になっているのかもしれない。
敦の異能だけが、人間ではない虎の姿をしているのも、同じような理由からではないだろうか。

思考を得たことで人は生きることについて色々な考えを持つようになり、それ故に生命の根源から無条件に溢れ出るはずの「生きたい!」という純粋で原始的な渇望を失った。
そんな中で、生きるということを「思考を介さずに」捉えることができる稀有な人間が敦であり、そこに澁澤は生命の輝きを見い出したのかもしれない。

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