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中也と太宰の似ているところ異なるところ(お題箱から)

※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。
※お題箱に頂いたお題への返信です。

頂いたお題はこちら:
世間が4期の話題で盛り上がっている中、場違いなようで恐縮なのですが…。
この度、ものあし様のストブリについての考察を読ませて頂き、中也さんについて色々と思うことがあったので、是非ともご意見を頂戴したくお題を送らせて頂きます。考察と呼べる程大層なものではないのですがよろしければお付き合い下さい…!

中也さんって、仲間のことは大切に思う反面、自分自身に対してはとことん無頓着なように思うんです。太宰さんのように死を望んでいる訳ではないけれど、仲間の為なら迷いなく命を差し出す、そんなある種の危うさがあるように感じたのです。そこで思ったのですが、彼は仲間や組織といった“守るべきもの”がないと生きていけないのではないでしょうか。大切な仲間を失い、時に裏切られ、辛い目に遭ったとしても、人と関わって生きることをやめられないのはそれが理由なのではないか、と。
誰かに必要とされないと生きていけないってことですかね。大切なものを守ることが彼にとっての存在意義であり、それによって初めて自らの力に意味を見出だせるのではないかな、と。
ストブリ終了の時点で中也さんは自らの正体に拘ることはやめたのでしょうが、自分の命に対する執着が薄い点についてはあまり変わっていないように思います。中原中也という“人格”ではなく、荒覇吐という“力”の方が本体であるという考えも基本的には変わっていないのではないか。だからこそその力も含め誰かに必要とされることを求めているのでは?とも思います。
自分の命に対する執着が薄いという点は、太宰さんとも共通するように感じます。太宰さんはストブリの時点では、意図的に他者と関係を築くことを避けているように感じますが…。
ただ、中也さんが強いのは、自分自身の境遇に満足しているところだと思うんですよね。今以上を望まない。自分が今手にしているものを守ることができればそれで満足、という。

上手くまとめられずお題というより一方的な語りのようになってしまい大変申し訳ございません…。
太宰さんと中也さんの共通点、逆に異なっている点なども含め、ものあし様の考えをお聞かせ願えれば嬉しく思います…!


お題を頂きありがとうございます!そしてもうすぐ4期が終わる頃になってようやく返信しているの本当にすみません。

お題主様の中也の考察、とても共感しました!すごくよく考えていらっしゃるので、もはや私なんかの意見なんて聞かなくても大丈夫なのでは…?
私も基本的にお題主様と同じように感じていますし、あまり特別な気づきを与えられるわけでもないのですが…お題主様がとてもしっかりした考察を書いてくれましたので、それに甘えて私はお題主様とは少し違う攻め口から考察を自由に書いてみたいと思います。考察といいつつ、一個人の戯言にすぎませんのでどうかご容赦を。

ではいきます。
はっきり言ってね、中也はね、太宰さんなんかよりよっぽど要領がいいのですよ。あれやこれやと見つかるはずもない答えを四六時中考え続けている太宰さんは非常にめんどくさい脳の持主で、基本的に非生産的なのです。
その反面、中也は生きる意味とかそういうのどうでもいいことをよくわかっていて、生きる上で大切にしたいことも明瞭にできていて、それが「自分にしかできないことをする」「生きている以上は義務を果たす」ということなんじゃないかなと思います。
やるべきことをやるだけで十分、それ以外は考えるだけ無駄という中也と、やるべきだからやるというのを受け入れられずその意味を根底から考えることをやめられない太宰。生き方への向き合い方や考え方の性向が真向から反対なので、お互いに理解し合えずにいつも苛立ってしまう、という側面はあるように感じています。

中也が抱える「手札の責任を果たす」という義務感の裏には、「荒覇吐の器である」という強い自覚があるのかもしれないですね。
その力は類まれなる強さを持つものであり、あらゆる異能の王者たる格があり、それゆえにこの世界には自分にしかできないことが数多く存在する。その力はある種「公的」なものであり、私利私欲のために使うものではない。
だから「義務を果たす」「仲間を守る自己防衛(含む復讐)」という明白な理由以外では決してこの力を使わない、そういう制約を自分に課しているのだとも言えます。力に溺れたり、驕ったりすることがないところ、ほんとかっこいいですね。

ストブリでは中也は旗会の喪失に突き動かされましたが、なぜ仲間の死が中也にとってあれほど苛烈なインパクトをもたらすかといえば、さっきと同じように中也は無駄なことを考えないからなんだと思います。
無駄なことを考える人は「あの死は必要な死だ」とか「みんないつかは死ぬのだし」とかそういうことを考えて死を正当化しようとするので、結果的に喪失に対する感情の働きというのは比較的弱まるけれど、中也は決して頭で死を正当化しないので、喪失の痛みを直に全身全霊で感じ取ってしまうのだと思います。それ故に人一倍、死を許せないんじゃないかなという気がします。悲しいとか辛いとかそういう感情は見せずに怒りに全振りしちゃうという傾向はあるみたいですけれども。
「仲間の喪失」に対する過去の辛い痛みを身体がよく覚えているからこそ、今いる仲間への想いや仲間を大切にしようとする気持ちに繋がっている、という部分もあるのかもしれません。

中也は居場所があることの重要性をよくわかっているようにも思います。
力を使う場所、力を必要としてくれる場所、そういうところにいることで充実感や満足感を感じるのかも。必要とされるということは、受け入れられているということであり、そうしている間、中也は自分に愛着を持てる。だから中也は仲間や組織を大切にすることで、間接的に自分を大切にしている、そういう風にも受け止められるような。

逆に太宰は居場所づくりを極力避けてる感じがしますね。居場所で解決するならこんなに悩んでないっていう偏屈な考えが透けて見えそうです。
ヴェルレエヌも同じで、居場所を見下している。孤独な彗星とはよく言ったものです。
彼らの根底にあるのは、自分を理解してくれる人なんていない、自分は人と違うという考え方であり、違うことを理由に孤独を選択しているのかなあと。

だけど人と違うのは中也も同じで、自分が他の人間と明らかに違うことを自分でもわかっているけど、それを理由に孤独に走らない。むしろそこを逆手にとって、違うのなら違うなりに自分にしかできない責務を集団の中で果たそうとする。そういうところめちゃくちゃえらいと思うし、中也が実は一番「生きる術」をよく理解しているような感じがします。
人と違う、という自覚を中也も太宰も持っているので、二人は原点の部分では似ているはずなのですが、そこから導き出す「他者とどう関わるか」というスタンスの部分は正反対なのかなと思っています。

と、ここまで中也と太宰の相違点しか上がってこなかった…
「正反対の相棒のことをミリも理解できないしたくない」という頑固なところを二人とも持っているという意味では、似たもの同士なんですけどね。

もう一つの似ている点を挙げるとすれば、やっぱりストブリに出てきたあれでしょうか?
Nの研修施設において中也が幻聴で聞いた太宰の「君はね、深いところでは僕と同じなんだよ」という言葉。
荒覇吐が存在する理由、自分が人間なのかそうじゃないのか、その真実を探そうとする中也は、実のところ、生きる理由を探そうとする太宰と同じなのではないか。真実を知ろうとすることは、自分はどうせ人間じゃないのだろう無意味な命なんだろうという疑いを確かめようとする行為であり、それはとりもなおさず「生きることは無意味なことだ」というテーゼの裏付けを得ようとしている太宰のその行為と同じなのではないか。
人間じゃないのであれば「人間じゃない」という烙印を誰かに押してほしい、そうすれば何もかもを諦められる、と中也がどこかで思っていたのなら、それは人生を投げ捨てるための口実を得ようとしていた、ということになるように感じます。
「生きる意味がないなら死にたい」という太宰の考え方は気色悪いと撥ね退けてきたけど、自分だって実は同じだったのかもしれない。こんなような感じのうっすらとした不安が中也の中でわだかまっていて、それによって中也はあんな幻想を見てしまったんじゃないかなあと思っています。

なので15~16歳頃の二人は似たような悩みの中にあった、ということのように感じます。だから表面上では絶対に理解できないって思っていた相手の気持ちを、実は心の奥底では少しだけ理解できていたのかも。
また、中也が真実にこだわるのをやめた後に、太宰も生きる理由にこだわるのをやめた、というあたりも二人が同じ道筋を辿っているという意味では共通項かなと思います。

意味や真実を探してしまっていたかつての気持ちも、意味や真実に価値なんてないと気づいたときの気持ちも、実はお互い共有し合っている。表面では絶対にそんなこと言わないし気づきたくもないけど、心の奥深くどこかでは相手の気持ちが実は理解できているんじゃないかなあ。
そしてその共通点は、二人が懸命にひとりの人間として人生を歩んできたという紛れもない証である、ということのような気がしています。

と、好き放題書いてしまいました。
あのね、双黒はね、見る人によって見え方が全然違うと思うのですよ。
例えてみると、表面が固いチョコレートでコーティングされたケーキのようなもの。表面のチョコレートだけではそのケーキの味を決して想像し尽くすことはできない。
切ってみたら中はいちごムースたっぷりの甘酸っぱいケーキなのかもしれないし、もしかしたら中にはふわふわのスポンジが詰まっているかもしれないし、あるいは中までぎっしりチョコレートでつまってるのかもしれない。
公式が見せてくれるのは表面のチョコレートだけであり、ケーキの中身は読者の想像に任されている。
なのでこの考察は私が想像したひとつのケーキの形にすぎなくて、一人一人それぞれオリジナルのケーキがあって当然で、双黒とはそういう無限の可能性を持った不思議な関係性なんだと思います。

ということで、これにてケーキのお披露目は終了です。堪能いただけていたなら嬉しいです。

素敵なお題、ありがとうございました!

お題主様からのご返信:
有難くご返信を頂戴しましたので、紹介させて頂きます!

以前に双黒についてのお題をリクエストさせて頂いたものです。遅くなりましたがお礼をさせていただきたくこちらにて失礼します(返信は不要です)。
お題への回答ありがとうございました!最初から最後まで納得と共感の嵐でした…。ものあしさまの双黒観、じっくり堪能させて頂きました…!双黒の話は一度伺ってみたいと思っていたので機会を頂けて嬉しかったです。私の考えにも共感して頂けてありがたいです。私の考えはものあしさまの考察の上に成り立っている部分も大きいので、しっかりした考察ができていたらものあしさまのおかげです…!

もしかしたら中也さんには力を使うことへの本能的な恐怖があって、無意識下で力をセーブしているのかもしれないですね(彼にとって力に溺れることは即ち死を意味するので)。だけど怒りの感情がそのセーブを忘れさせる。これは以前に聞いた話なのですが、怒りという感情は生存本能から起こるものだそうで。彼にとってはむしろそれが命取りになりかねない訳ですが、それでも大切なものの為なら命を懸けられる…そういう人ですよね、中也さんって。

それから改めて思ったのですが、中也さんは羊でもマフィアでも、自分は周りの人間とは違う異質な存在だと認識しながらも、彼らを仲間であり居場所だと当然のように感じているんですよね。それは恐らく一番最初に羊の仲間が彼を受け入れてくれたからで(後々裏切られることにはなるんですが)、その経験が今も彼の中で生きている。彼の言う「仲間に恵まれた」とはそういうことなのかもしれないですね。

(これは完全なる蛇足で単純にものあしさまに聞いて頂きたくお話するのですがアニメ3期OPの「セツナの愛」、改めて聴いてみたら歌詞に「矛盾」とか「混沌」とかのワードが出てくるのに加えてPVに登場するのが悪魔(=山羊)で軽く震えました…その辺りを踏まえて聴いてみるのも面白いかも、という話でした。長々と失礼致しました…!)

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