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中也の強さの源泉。そしてストブリが彼にもたらしたもの。

※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。
小説STORM BRINGERのネタバレを含みます。

ストブリを改めてじっくり読み直した結果、中也について新たな考えを持つようになりました。少し異端な考え方かもしれませんが、一つの中也論として読んで頂けると嬉しいです。


中也の強さの源泉は「自分は人間ではない」という考えそのものなのではないか。中也は自分が人間じゃない何かだと思っていたからこそ、何事にも動じなかったのではないか。

「心臓なんて上等なもの」と中也は言った。
心臓を、心を、上等なものだと思っている。
下等な自分に心などという上等なものは似つかわしくない。そんなもの持っているはずがない。
自分には感情や心というものは存在しないんだと思っていたから、感情や心から来る弱さを排除できた。
人間ではないという思い込みが中也の精神を強くしたのかもしれない。

ストブリで中也が「自分は人間なのだ」と思ったとき、必ずそこには人間特有の感情の揺れから来る弱さのようなものがあった。
人間だと知った瞬間に、人間の持つ弱さがつきまとう。
Nの拷問に遭って幻覚を見ている間も、中也は心の動きに振り回されていた。いくら幻覚とは言え、それは中也の潜在意識が見せているもの。
人間であるが故の弱さがそこでは渦巻いていた。

そして人間として中也が苦しむのを見たいという太宰の言葉。この言葉はやっぱり太宰の嫌がらせなんじゃないかと思う。
中也が人間として苦しんだら、中也は中也ではなくなってしまう。
もちろん、Nを殺しても中也は中也ではなくなる。
太宰が望む人間としての中也、ヴェルレエヌが望む獣としての中也。そのどちらも中也じゃない。
人間ではない自分を受け入れて、人間の弱さや苦しみは自分とは無縁のものだと思う中也こそが中也なのではないか。
実際に人間かどうかということは重要じゃない。
「自分は人間ではない何かかもしれない」というその考えこそが、中也という人間の強さを形成している。

ストブリの前と後で中也の人格に大きく変わった点はない。持っている手札の責任を果たすという信念も変わらない。
だけど一つだけ変わったことがある。
もともと中也の前にはポッカリと闇の穴が空いていて、中也がそこに飛び込むのを口を開けて待っていた。
闇の深淵を見つめる中也を闇は見つめ返していた。
闇をまとっていた太宰と違い、中也はただ闇を見つめ、そして見つめ返されていた。
だけどストブリを通じてその穴が閉じたということ。
もう彼には落ちる場所はない。目を凝らして闇の深淵を見ようとする中也はもういない。
中也が自分とは何者かを探し続ける限り、闇は口を開けて待っている。
ストブリとアダムを通じて、中也は自分が人間ではないかもしれないことを、その曖昧さを受け入れて、何者であるかを探し続けることをやめた。
そういう意味ではヴェルレエヌは確かに中也を救ったのだ。

人ではないという軛が中也を強くした。
そこには敦と同じコンテクストが含まれている。
敦は院長から痛烈な虐待を受けて強くなった。「それが君を正しく育てたんだ」と太宰は言った。
そして中也にとって荒覇吐は院長のような存在であり、敦と同じようにその苛烈な呪縛が中也を強くした。

生まれ持ったもの。逃れられない環境。人生に付きまとう軛。
私たちはそれに苦しめられたとき、どうすればいい?

「歓べ!」と誰かが言った。そのとおりだ。
歓べなくなるや人は深淵に面する。
そして「深淵はまた人を見返す」というニーチェの言葉どおりになってしまうのだ。

中原中也 『生と歌』

そうだ。歓ぶしかないのだ。
何をしても逃れられないのなら、いっそのこと抱擁してしまえばいい。
自分を、人生を、全てを受け入れて抱きしめて、そして歓ぼう。
自分が自分であること。
時々、獣が自分を支配してしまうこと。
そして、そんな自分をそれでも受け入れてくれる人がいること。
その全てに歓べたとき、闇はその口を閉じ、深淵の魔物は遥か彼方に消えていく。

恐ろしい嵐が過ぎ去った後のような、きらめく爽快感を残して。


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