怒りと報復は中也の流儀。彼の怒りの源にあるもの。
※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。
※小説STORM BRINGERのネタバレを含みます。
STORM BRINGERで中也が激しく抱いていた怒りの感情。その根源には一体何があるのか。
旗会というかけがえのない家族。
失う時は一瞬で消えていく、シャンパンの泡のような時間。
それは太宰にとってのルパンであり、織田にとっての孤児たちでもあった。
織田は大切なものを失ったとき、生存の階段から降りた。
太宰は大切なものを失ったとき、託された想いを繋いだ。
中也は大切なものを失ったとき、純粋で透明な怒りを爆発させた。
苛烈な報復をするのがマフィアと羊の流儀。そしてそれはすなわち中也の流儀。
森は「死んだ人間はどのような感情も抱かない。復讐は生きた人間のために行うものだ」と言っている。
だけど中也は死んだ者たちの代わりに怒り、復讐する。何も言えなくなった人たちの代わりに、その理不尽な死に対する嘆きを全身全霊で表現する。
ヴェルレエヌの原動力は、自分自身の無意味な生に対する復讐。
中也の原動力は、仲間の命が奪われたことに対する復讐。
兄弟らしく二人とも同じように復讐に心を燃やしていたが、対象とするものが違った。
自分のための復讐か、仲間のための復讐か。
だが森の言葉「復讐とは生きた人間のためのものだ」の意味を考えると、中也も間接的には自分のために復讐しているという受け取り方もできる。
ヴェルレエヌを突き動かす感情は憎しみだった。
自分を生み出したこの世の全てに対する憎しみ。
中也を突き動かす感情は怒りだった。
理不尽に命を奪われ何も言えなくなった仲間たちの代わりに怒り、命を燃やした。
自分は人間ではないと思い、どんな感情も抱かなかった中也が唯一抱いた怒りという感情。
怒りは命への情熱であり、仲間への情熱であった。
詩人 中原中也は詩集『山羊の歌』の最後の詩「いのちの声」でこう詠っている。(読みやすいように一部抜粋して意訳しました。)
僕は雨上がりの曇った空の下にある鉄橋のように生きている。
僕に押し寄せてくるもの、いつだってそれはひっそりとした寂しさだ。
だけど僕はその寂しさの中にすっかり沈静しているわけではない。
僕は何かを求めている。絶えず何かを求めている。
しかしそれが何かはわからない。わかったためしがない。
それはどのようにも説明できないもの。
一言で言い表したくなるが、そんな簡単には言い表せないもの。
自分にそれは女か?おいしいものか?栄誉か?と試しに訊くが、あれでもないこれでもないと心は叫ぶ。
だとしたらそれは空高く響き渡る歌とでもいうのだろうか?
だけどどのようにも言い表すことができないなにか。説明できないなにかにこそ、この生の価値があるのだと信じている。
目の前の現実こそが、汚れなき幸福であり、あらゆるものはありのままでいいのだということ。
だとすれば、あとは熱情の問題だ。
汝、心の底より立腹せよ! 怒れよ!
しかし怒りそのものを目標とすることのないよう。
熱情はひとときの感情にすぎない。
怒りの先にある真の目標を見失なわないよう。
夕方、空の下で、身一点に感じられれば、万事において文句はないのだ。
漠然としたこの世界、その中で怒ること、情熱をほとばしらせること。
それが生の実感に繋がる。
中也が唯一抱いた怒りという感情。
それはすなわち中也の生きることに対する強い情熱そのものだったのかもしれない。
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