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敦の敵が芥川である理由(お題箱から)

※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。
※お題箱に頂いたお題への返信です。

頂いたお題はこちら:
何故芥川龍之介という名の知れた文豪を敦と対照的な存在程度にしか使わなかったのか気になります。物語の重要な部分にいる登場人物達は名を残した文豪が多いように思えます。芥川も勿論かなり重要度が高い登場人物だと思いますがそれにしては福沢のように地位が高かったりドストエフスキーのように黒幕的存在ではないのでものあし様のお考えを聞きたいです。

敦と対照的に描かれる存在が芥川でなくてはならなかった理由などあればそちらも含めて知りたいです。よろしくお願いします


しびれるお題をありがとうございます!!
物語の根幹を突くようなご質問で、満足頂ける答えを提供できるか自信ないですけど頑張って回答してみます。
実際の理由などは当然わからないので、お粗末な推論としてご覧頂けると助かります。

最初に少しだけ四方山話を…
この界隈にいるとですね…正直なところこんなような風当たりを感じることがよくあります
「たぶん朝霧カフカはそこまで考えてない。少なくとも始めた当初はそこまで深く考えてない」
本当にそこまで考えてないのか、それとも実は最初から深い伏線を張り巡らしているのか、真実をこの私が知る由もないのですが、ひとつだけわかることと言えば、漫画の連載を始めるときは柔らかめで出し始めるというケースも割と多いようで、読者の反応を見ながら固めていく、という手法を取っていたりする可能性はあるということです。
なので文ストもそんな感じかも?という前提に立って、なぜ芥川が敦の敵役に位置付けられているのか、シンプルに考えてみたいと思います。

ひとまず単純な結論を。
芥川が敦の敵になっているのは「龍vs虎」だからであり、芥川が龍に位置付けられているのは名前に「龍」の字が入っているからである。

ズッコケる読者が目に浮かぶくらい、シンプルな結論に到達してしまいました…。

DAで敵役に抜擢された澁澤さんも理論は同じ。
「龍vs虎」を描くために、龍の字が名前に入っている龍彦さんが選ばれている。

さすがにこれだけではシラケるのでもう少し肉付けしますね。

■龍虎という視点

龍虎という言葉は文スト界隈にいると馴染み深い言葉だと思いますが、龍と虎というのは、正反対の方角に位置する神獣であり、ふたつとも最強と称されながらも対極にいるせいか、古代中国より反発し合うものとして描かれてきました。龍と虎が今にも戦闘を始めようとにらみ合っている絵画や屏風を目にしたことある方も多いのでは?

反発し合う者同士を初期から戦わせながらお互いを研磨させる、というのはバトル漫画によくある構図でもあり、さらに反発するもの同士が最終的に同じ方向を向いた時、その力の強さが特異点のように未だかつてないほどに大きなものとなる、ということでもあると思います。
文ストの最後に待ちかまえている敵は、それぞれ単体で最強とうたわれている虎でも龍でも力は及ばず、本来はあり得ないはずの虎と龍の共闘という前代未聞のことが起きない限り倒せない、それほどに強い、ということの表現でもあるのかもしれません。そして龍虎という構図は敦と芥川の共闘がどれだけ難儀なことかも表しているし、この二人が常に反発しあっている根本的な理由でもあると思います。

「主人公と敵対する相手としての龍」という意味合いなので、龍は別にひとりじゃなくていいのだと思います。
名前に龍が入ってるもの、龍の象徴を持つものなど、龍関連のものを虎と敵対する位置に持ってくる可能性は今後もあったりするのかもしれません。

(余談)「雲は龍に従い、風は虎に従う」という有名な言葉がありますが、DAで澁澤が巻き起こした霧(=雲)は澁澤に従い、アニメEDでよく見かける横浜の風は敦くんが従えているものと思われます。

■文豪とのつながり

敦が主人公になっているのには、文豪の中島敦が持つ特徴が理由になっている部分も大いにあると思います。(まだほとんど明かされていませんのですべてただの憶測です)
・『山月記』の「人間が虎に変身する」「性情が目に見える形をとる」というあたり、異能力との親和性が高い
・『文字禍』を書いている、文字のもつ力そのものに対する思念
・フランツカフカとの繋がりの深さ、同様に他の不条理文学作家との繋がりの深さ(文ストの中心に近い軸に不条理文学の存在があると思っています)

これ以外にも「虎は全宇宙を内包している」と考えたボルヘスの思想も個人的に好きなので、なにか繋がりがあるんだろうかと気になっています。

こんなような理由で、虎である敦が主人公というのが最初に決まり、その後に敵役として(龍虎の発想をベースに)芥川が候補にあがったのではないかなと勝手に推測しています。中島敦の敵が芥川龍之介である必要性は、残念ながら史実の文豪のつながりでは見つけられませんでした…。(今後なにか見つけたらまた書きます)

芥川のキャラクター設計の中にはもちろん史実の芥川龍之介がモチーフになっている部分が沢山ありますし、わかりやすいので既にご存知の方も多いと思います。
例えば、芥川の異能力が服を操る力なのは、老婆の衣服を引き剥がして奪った羅生門の主人公からの着想だと考えられます。服は「生きていくことへの渇望の表れ」であるとも受け止められます。
作中の芥川の生い立ちの視点で考えると、芥川が服を操る異能を持つに至ったのは貧民街での生活にあるのではないかなと思います。
貧民街では食べ物さえも手に入らないような過酷な生活を送っていたようですが、服だけはおそらくずっと身に着けていた。服は幼い芥川の唯一の所有物だったと思われます。
貧民街で仲間が襲われたときにとっさにそれを武器に変えた、それが芥川の異能発動のきっかけかもしれません。

■芥川のもうひとりのモデル

文スト歴長い方はご存知なのかもしれませんが、芥川の異能のモデルとなっているのは『精獣戦争』だとカフカ先生ご本人が明かしています。
ということで私も全巻買ってみました。まだ1巻の「龍は喰らう」までしか読めてませんが、精獣戦争の龍は「絶望を司る黒龍」であり、あらゆるものを呑み込みます。こんな感じで。

まず、闇に呑まれたのはその声を伝わらせるべき空気であった。
次に、大地が呑まれた。
草が呑まれた。
人が呑まれた。
そして、精獣が。
ありとあらゆる存在が呑まれ、美しい青年は孤独であった。
『精獣戦争 龍は喰らう』三田誠

あらゆるもの、世界そのものさえも絶望の深淵へと吞み込み消し去ってしまう黒龍は、芥川の持つ「空間そのものを喰らう力」へと繋がっているのかなと思います。

文豪芥川龍之介は『杜子春』『蜘蛛の糸』『おぎん』など数々の地獄を題材とした作品を描いており、「人生は地獄よりも地獄的である」という有名な言葉も残しました。
『歯車』という遺作には、芥川を自殺に追い詰めたさまざまな不気味な幻視が描かれているとされていて、その中の一節に或老人とのこんなやりとりがあります。

「いかがですか、この頃は?」
「あいかわらず神経ばかり苛々してね。」
「それは薬では駄目ですよ。信者になる気はありませんか?」
「もし僕でもなれるものなら……」
「何もむずかしいことはないのです。ただ神を信じ、神の子のキリストを信じ、キリストの行った奇蹟を信じさえすれば……」
「悪魔を信じることは出来ますがね。……」
「ではなぜ神を信じないのです? もし影を信じるならば、光も信じずにはいられないでしょう?」
「しかし光のない暗やみもあるでしょう。」
「光のない暗とは?」

 僕は黙るよりほかはなかった。彼もまた僕のように暗の中を歩いていた。が、暗のある以上は光もあると信じていた。僕等の論理の異なるのはただこういう一点だけだった。しかしそれは少なくとも僕には越えられない溝に違いなかった。……
『歯車』芥川龍之介

光を信じることができず暗やみに呑まれた芥川はこれを執筆した後、服毒して自ら命を絶ちました。
地獄と闇の深淵に住まう文豪。芥川が、世界を闇で呑み込む絶望の黒龍に重ねられている所以がこういったところにあるといえます。

どこまで真実に迫れているかわかりませんが、現時点での個人的な結論はこんな感じです。おそらく物語の終盤に「芥川龍之介でなくてはならなった理由」も用意されているんじゃないかな。そう期待しています。
お題を頂きありがとうございました!


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