中也とシグマの比較&太宰とドスから見た彼らについて(お題箱から)

※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。
※Twitterのお題箱に頂いたお題への返信です。

頂いたお題:
どなたかが太宰とドストの神様についてのお題をあげられていましたが、では、2人のそれぞれの神みたいなものの象徴である中也とシグマ(中也は推察でしかないが、前回のものあしさん考察に準じる)はどう比較出来るのか、さらにそこから、太宰とドストの彼らへの認識の共通点又は相違点が気になります。お時間がある時にお答えいただけると嬉しいです!


お題を頂きありがとうございました!
出自、人間性、神、異能力の本質。このあたりの根源的なものが混ざり合わさった深い深~いテーマ性が横たわっているのですよね、この界隈は。
中也とシグマを同じ場所に置いた朝霧先生はすごいなと私も思いました。

さて、まずは中也とシグマの比較についてです。
この二人は同じように、途中から人生が始まっています。
生まれた瞬間から、自分の生き方や居場所を模索することを始めなければいけません。生きることに対する価値基準がまっさらな状態なわけです。

普通の人は、親の影響や幼少期の経験から徐々に、そして無意識的に、価値観を形成していくと思いますが、彼らにはそれがありません。
「自分」というアイデンティティを早急に作り上げないといけない。
アイデンティティがないうちは幼い子供と同じです。
そしてそれはすなわち、最初に出会ったものが、彼らの世界観を作る構成要素になるということでもあると思います。

シグマの価値観形成に影響を与えたもの

シグマが出現した場所は砂漠でした。砂漠という容赦ない過酷な自然環境から、「世界は甘くない」「自然は甘くない」「生きていくのは辛く大変なことだ」という印象がまず形成されると思います。
そして初めに接触したのは犯罪組織でした。シグマが最初に見た人間は、「慈悲」や「情緒」というものからほど遠く、愛や優しさのない人間でした。そこから「人間は味方じゃない」という価値観が生まれたのだと思います。
この世界は自分に容赦ない、味方してくれるものはなにもない、だから自分は自分一人の力で生き抜いていくしかない。人に頼ることはないし、心を許すこともない。そうやって心を閉ざし、近づいてくる奴らを警戒して孤立しようとする人間性が生まれたのは、彼を取り巻いていた環境あってこそだと思います。

しかしシグマは「家」にこだわります。果たしてシグマのイメージする家や家族はなにを参考にして思い描いたものなんでしょうね?
犯罪に利用され続ける自分に別れを告げて、自分が自分でいられる居場所を作りたかったはずです。
彼にとっての初めての家はカジノで、初めての家族は客でした。だとすると、家とは同じ関心を持つ人が集まる場所で、家族とは客のように交換条件でWin-winが成り立つ関係性だということになります。
それらは自分の努力の対価として得るものであり、その報酬として自分自身の存在を認めてくれるもの。
シグマの目に映る世界に愛情や友情を起因とするものは、今のところ何もないのかもしれません。
だから彼の考える家や家族にも、愛情や温もりがあるわけではない。
シグマが家を思い浮かべるとき、彼の中では「扉を外から見た光景」しか浮かんでいない。つまり、家という概念的なものを持っているだけ。
その扉の向こうにある世界がどんなものなのか、(見たことがないから)想像がついていない、ということなんだと思います。

そんなシグマが今後、本当の意味での「家」を知ることができたらいいなと願っています。
愛情や温もりで満ちている場所。
シグマが思い描く扉が、もし探偵社の扉だったら。扉の向こうでシグマの入社祝いパーティーが開かれていたら。
そんな素敵な未来が待っててくれたらいいですね。

中也の価値観形成に影響を与えたもの

中也の価値観形成についても、十五歳とストブリでの描写からある程度の想像ができます。
初めにあったのは生まれたての意識でした。
「印象」でしかないぼんやりとした世界。
人はお腹がすくんだと知った。
お腹がすく感覚とはこの感覚のことかと気づいた。
生きるためには物を口に入れて咀嚼する必要があるんだと知った。
生後0か月の赤ちゃんとまったく同じです。

そんな中也を迎え入れてくれたのは羊でした。
中也は自ら選択して羊に入ったわけではなく、気付いたらそこにいたんだと思います。まさに家族にように。
羊の仲間は兄弟のようなものでした。身を寄せ合って生きていく家族。
中也が最初に出会った世界は、兄弟である仲間に満ちていたわけです。

そして兄弟は増えていく。そこに人数制限などない。
仲間になったやつは自動的にともに生きていくための家族になりました。
その経験が、同じ組織に属する人たちを家族のように大切にする中也の価値観に繋がっていると考えられます。
中也の価値観形成の中心を担っていたのは、仲間同士寄り添い合って家族のように生きていく羊での経験にあったのだと思います。

兄弟で構成された家族には役割分担がありました。それぞれの得手不得手が加味された役割。
食糧を調達する役、お金を稼ぐ役、清掃する役、情報を仕入れる役、襲われた時に戦う役。
家族を維持するためには一人一人が役割という義務を負わなければなりません。共同体の維持のために義務は絶対でした。義務を果たせないことは、すなわち共同体の維持存続に危険が及ぶということになります。
そういう生活の中で、やるべきことをやる、義務を果たす、という価値観が自然と培われたのではないでしょうか。

シグマも中也も、無から生まれた後の最初の経験が、その後の人格や価値観の形成に如実に反映されていると思います。
親ガチャならぬ、最初の環境ガチャ。恵まれた人生と恵まれない人生がこんな感じで容易く決まってしまうなんて。この二人の対比には、生まれた環境によって人生があっけなく決まってしまうという現実の摂理が反映されているように思います。
そんな彼らに「いいことも悪いことも半分ずつ」巡ってくる姿が描かれていくのか、それとも悪い環境から自力で脱出していく姿が描かれていくのか。そんな視点で今後の二人の対比を見守るのも、面白いかもしれないですね。

太宰とドスにとっての中也とシグマ

太宰にとって中也は神であり、ドスにとってシグマは格上です。
では中也はドスにとっても神であり、シグマは太宰にとっても格上なのでしょうか。

まず前提として、太宰とドスの認識は対をなしていると考えています。
ドスはすべてが有意味で、太宰はすべてが無意味です。
ドスはキリスト教を中心とした西洋世界の思想を、太宰は日本古来の世界観を中心とした東洋世界の思想を体現していると思っています。(あくまでも個人的な意見です)

中也に対する認識
それを念頭に置いて、まずは中也について考えてみたいと思います。
荒覇吐は渾沌の存在であり、本人に善悪はないし、神の意味も魔の意味も特段持ち合わせていません。
そこに意味を与えているのは周りの人です。
荒覇吐を神に仕立て上げたのも周りの人です。

魔獣ギーヴルも荒神荒覇吐も、異能の特異点の混沌であり、物理エネルギーの混沌であるという点では何も変わりません。
物理エネルギーそのものが何も意味を持っていないのと同じように、二つの渾沌にも本来何も意味はないはずです。
それが西洋で出現すれば魔物扱いされ、日本で出現すれば神扱いされる。それだけなんだと思っています。

そのため中也は、太宰にとっては神でも、ドスにとっては悪魔になりえます。
だからといって、ドスが中也を蔑むかというと、そういうわけでもない気がしています。
ドスは悪を無くしたいと思っているようですが、同時に「神と悪霊の右手が示すとおりに」と言っているように、悪霊の声にも従っていると考えられます。
ドスにとってはおそらく天使も悪魔も同等であり、どちらも人間に影響を及ぼす側という意味では、人間より格上と思っている可能性はあります。(逆に人間は、天使にも悪魔にも影響を与えることはできないですしね。)
なので、たとえ中也のことを悪魔認定しても、中也に対して敬意は払うのではないでしょうか。
ちなみに、ドスにとっての神は唯一神だけだと思うので、仮に中也を善サイドに置いたとしても彼のことを神とは思わず、天使とかそんな感じのものと捉えるんじゃないかなと想像しています。

しかしこれらはあくまでも荒覇吐に対する認識であり、器としての中也という人間に対する認識ではありません。
そもそもドスは中也のことを人間だと思っているのか…微妙なところですね…
ドスは人の人間性を見るようなタイプじゃないので(すごい失礼)、そもそも人間の部分はドスには見えてないという可能性すらあります。
中原中也という個人を見ずに、荒覇吐しか見てないというのは普通にあり得そうです。ドスにとってはどんな人も基本的にはただの駒ですもんね。

シグマに対する認識
次はシグマです。
シグマに対しても同様に二人の認識は反転するのではないかなと予想しています。
ドスがシグマのことを格上と言っている理由はよくわかりません。
しかしもしそれが「本という創造主(神に近い存在)から直接生まれた人だから」という理由で格上だと思っているなら、太宰の世界認識ではシグマは格上にはならないはずです。
太宰にとっては神から生まれようが悪魔から生まれようが格もなにもなく、ただの人間でしかないんだと思います。

ドスが格上と言いながらシグマを殺そうとした理由が気になるところですが、あれは殺そうとしたのではなくて、地上のゴーゴリまで落とそうとしただけ、とも解釈できるので真意はわかりません。

こんな感じで、太宰とドスの世界認識は真逆になっていると、個人的には捉えています。
ドスと太宰の「読み」には差はないはずです。
太宰が読んでることはドスも読んでるし、ドスが読んでることは太宰も読んでいます、きっと。
この二人が似ていると言われているのは、この読みの差分がないという意味ではないでしょうか。
しかし二人の価値観は真逆。
この二人に勝負がつくとしたらそれは読みの差分によるものではなくて、価値観の差異によるものではないかなと考えています。
だけどドスの価値観を否定することはキリスト教的価値観を否定することにもなるので、バッサリ切り捨てるようなことはしないんじゃないかなという気もしますが。西洋世界と東洋世界が対等であるように、この二人もどこまでも対等、ということなのかもしれません。

以上、長々と書いてしまいました。
なんかまだ書き足りない気がするので、ほんとにこの4人は奥が深すぎますね…
少しでもお役に立てていたら嬉しいです。

お題ありがとうございました!!

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