咎与うるは神の業におけるメタファーについて

※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。

ドスとエースが対決する第42話(アニメ29話)「咎与うるは神の業」。
エースをどう嵌めたかという部分にばかり意識がいっていたが、この話の中で最も大事な描写は首輪なのかもしれない。

第42話では首輪についてこういうやり取りが描かれている。
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本人の同意なしには首輪は装着できない。
着ければ二度と外せない。
生きるには首輪を着けるしかない。
カルマはこの首輪から解放してくれる人を待っている。
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この首輪、実は「原罪」のメタファー(隠喩)であるかもしれないことに気が付いた。
もう一度上のやりとりの「首輪」の部分を「原罪」という言葉に置き換えて読んでみてほしい。

カルマは原罪から解放してくれる人を待っている、と受け取れる。
原罪から解放されるには死ぬしかない。
話の最後にカルマはドスの異能によって原罪から解放され、同時に首輪が外れるシーンが描かれる。

エースが原罪(首輪)を与える者だとするならば、ドスは原罪(首輪)から解放する者。
エースの私設部隊は全員ドスによって原罪(首輪)から解放され救われた。

原罪を首輪に置き換えるこの描写、うますぎる...

一方エース本人はドスに思考を操られ、自分の思考によって死に至る。
思考が罪ならば、ドスによって思考を操られるのは、罪を与えられているということであり、こちらもドスの異能力のメタファーになっているのかもしれない。

さらに、異能力者であるエースが一般人に首輪を着けるという構図自体が、サタンがアダムとイブを誘惑して原罪を負わせたことのメタファーになっていたりするのかもしれない。そしてドスはそのサタンを滅ぼし、人々を原罪から解放する者。
ということは異能力者はやはりサタンとなにか繋がりがある...?

この回もともと神回だと思っていましたが、メタファーのうまさが異次元なので、神度が大幅UPしました。

さて、題名の「咎与うるは神の業」。
たぶん読み方は「とがあたうるはかみのわざ」だと思う。
咎を与えるというのは朝霧先生の造語と思われる。
「咎を受ける」という言葉は存在し、その意味は「罰を受ける」こと。となると、咎を与えるとは「罰を与える」という意味と考えられる。
ここでいう神とは、キリスト教の神という意味もあれば、超越的な存在(=ドス)という意味も含まれていそう。この話でドスが使った異能は罰を与える異能であり、それは神の意志のなせる業である、ということだろうか。

悪人が死ぬのは因果応報によるものではなく、神が意図を持ってその人を罪から解放し救いを与えるため。
悪人は神の御業によって救われる。
悪人を救う正義の味方はいない、とカルマは言ったが、正義の味方はいなくとも超越した存在が救ってくれる。そしてドスはまさにその役割を担おうとしているのかもしれない。

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