見出し画像

太宰と美女と心中と(お題箱から)

※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。
※お題箱に頂いたお題への返信です。

頂いたお題はこちら:

こんばんはものあし様!!!いつも拝見しております。ものあし様の考察を是非お伺いしたいのですが太宰さんって美女がどうとか一緒に心中とかよく言ってますがあの太宰さんの美女が好き設定は史実を元にされているのは勿論の事ですけども一体いつから美女が好きになったのでしょうか。最初は太宰治というキャラクターの設定をしっかりとは考えて居なくて取り敢えず美女が好きという史実を元にした設定を取り込んだだけなのか………ですが梶井さんなどの元々出落ちキャラで作られていたのならまだしもめちゃくちゃな主要キャラクターな上朝霧先生はもう少し細かくこだわって作られていると思うので其はないんじゃないかなあとも思ったのですがでもやっぱり昔(15才)の時なんか美女が好きなんて鱗片見せてなかった気がするので………それに美人が好きというより美女が好きと公言していますよね。(今までナンパしてきたのは美女ばっかりだが。)人間ですから三大欲求はありますよねそりゃ、其れにどうして今さら美女が必要になったのでしょうか、、やはり何処かで包容力のあり、自分を理解してくれる人間を必要としているんでしょうか。そういう所が段々と人臭くなっているんでしょうか。というか太宰さんはどんなに醜い女性でも自分を理解してくれれば良さそうな気もしますよね。口説くのは美人ばっかりだが、でもやっぱり死ぬのは一人では寂しいからかな……だから誰かと心中する。→でも男と一緒に死ぬならどうせなら美女と死のう。そういう考えなのかなとおもいまして。すいません長ったらしく、、なんせ文章まとめるの苦手でして、、もし私が見落としていたり忘れているだけでしっかりとした根拠が原作にあるのでしたらすみません。ものあし様の何時もの的確ながら深い洞察力感心しながら見てます。失礼しました


おもしろーいお題をありがとうございます!!こういう話、今までしたことなかったのでわくわくしてます。

ところが!私とお題主様との間でもしかしたら捉え方が少し違っているかも?という部分を発見してしまいましたので、まずはそこからいかせてください。

■太宰は女なら誰でも好きだ

太宰が美女というとき、それが指してるものは全世界のすべての女性のことで間違いありませんか?
あらゆる女性が全員美女に見える、そういうミラクルな審美眼を持った男ですよね?
つまり太宰にとって醜い女性なんてこの世に存在しない、そういうことでOKですね??(圧)
大事なことなので念の為。

太宰の女好きを考えるときにいつも思い起こす言葉があります。

大庭のやつ、世界ぢゆうの女をみんな欲しがつてゐるんだ。

『道化の華』太宰治

太宰さんも葉藏と同じく、世界中の女を一人残らず全員欲しがっているはずなんだ。
だからうずまきのおばちゃん(原作)や看護師さんにもちょっかいを出して、そうして女性全員を自分の虜にしてみせたいーっっていう究極のモテ願望の持主、それが太宰という男ではないでしょうか。
女性にちやほやされたいという素直な欲望と、女性の気を自分に惹きつけておくのが超人的に巧いという生来の能力が悪魔合体して生まれた魔物であり、半径3メートル以内に絶対に近づけてはいけないくらい超越者級に女の宿敵なんだと思います。

こんな男が「彼氏にしたい男ランキング」みたいなもので堂々の上位に居座っているものだから、太宰へ投票した可憐な少女たちに向かっていつも全力で「やめておけ」って心の中で叫んでいる。

もう少し真面目に考えてみると、太宰が精神的に女性に頼っている部分というのはほとんどなく、遊びの範疇を超えないので個々の女性に対する思い入れは、ひどく浅い。
モテることを通じて退屈な人生を少しでも刺激的にするために、エンターテイメントの一貫で女性との関わりを謳歌している。それが、これまでに作中で描かれてきた太宰と女性たちの在り方ではないかなというのが個人的な感触です。

心中ももちろん、そういった中での「刺激的な口説き文句」のひとつに過ぎず、太宰は本心では心中する気はさらさらなくて、女性にふっかけてはいつもしっぺ返しを喰らうのだが、女性からのしっぺ返しの中にときおり想定外のことが混じっていて、そういった想定外のやりとりが楽しい。
女性というのは従順でかわいらしくもあり、ときに過激にもなり、「予想できない性質」や「思い通りにならない性質」を持っているところに少しだけ癒しを感じられる。こんな側面もあるかもしれない。
太宰が思い浮かべる女性とは特定の「誰かひとり」というわけではなく「女性(美女)全員」のことを見ているような感じがする。近頃はカフェの女給さんがお気に入りのようだけど、うきうきしながらお悩みをあけすけと晒しているので深刻さはゼロですよね。

太宰は、素の内面が表れている「深刻な側面」と、周りを楽しませるためにでっち上げている「道化の側面」のふたつを併せ持っていると思うのですが、太宰の女性との関わりは基本的には「道化の側面」に属しているものではないだろうかと感じています。

お題主様がいうように、15歳のころの太宰は心中には興味がなかった。それは18歳の黒の時代の時点でも同じだと思います。
心中を望むような描写が見られるようになるのは、20歳にあたる「太宰治の入社試験」の頃から。それまでは女性に対する関心もほとんどなかったように見えますよね。美女が好きというような言葉を言うようになったのも探偵社に入ってからではないかと。
つまり織田作の言葉を胸に抱いて「生きることを決意した」後に、太宰は初めて女性に対する関心を持つようになったということでもある。
だが、生きることを決意している以上、心中を望むのは矛盾しているので、おそらく心中心中と言っているのは単なる道化であり、毒キノコを食べて暴れまわっているのと同じ次元に属する出来事なのではないかなあと思っています。

率直に考察するとこんな感じで身も蓋もないただのチャラ男になってしまうのですが、少しだけ自分の本音を明かすなら、太宰が誰か特定の女性と心を交わして癒されることで何かしら救われるようなことがあってもいいのではないかと、太宰にだってそういうことが、織田作以外の誰かがいてもいいのではないかと、少しばかりそういう願いを持っています。だからお題主様に「理解してくれる女性が…」と言葉にしてくださって、同じ気持ちを抱いていた私としてはとても有難いなあと感じました。

■史実の太宰治と心中

史実の側面でいえば、太宰治は山崎富栄(愛称サッちゃん)と心中していますけど、心中に至るまでの太宰治の心の動きはどうだったのか、なぜ心中したのか、そのあたりは闇に包まれたまま。
そんな中で、一番の手がかりとなりそうなものにサッちゃんが書いた日記があります。

サッちゃんは本当にまっすぐで一生懸命で持てるものすべてを太宰治に尽くしてしまうようなめちゃくちゃいい子。現在の価値にして1000万円以上あった貯金をすべて太宰治のために使い果たしたほど。

太宰治との出会いから心中までの二人のやりとりやサッちゃんの胸のうちが赤裸々に『愛と死のノート』には記録されていて、愛の真剣さに胸を打たれるような内容でありながら、その反面、太宰治が心身ともに限界まで疲弊しながら血を吐きつつ執筆している姿がつぶさに見てとれる切ない日記でもあります。

この日記から太宰治がサッちゃんを精神的な拠り所にし、苦しみを分かち合うような関係性になっていたことが伺えますので一部ご紹介しますね。

1948年1月10日

修治さん、急に泣かれて、
「サッちゃん、頼むよ、僕を頼むよ」
「修治さん、いつでもおそばについております」
「独りで苦しまないで、よろこびも、苦しみも一緒にしたいのです」
「僕を良人だと思ってね」
「そう信じてますわ。信じて生きておりますわ」
「みんなが、僕を、僕を……」
「修治さん、泣かないで……泣いちゃ、駄目。ね、あなたのお母さまのぶんとも、わたしは守ります」
「うん、守ってね。僕を守っていてね。いつでも僕のそばにいてね」
 修治さんが可哀想で可哀想で、みんながなぜ、もっと、もっと大事にしてあげないのだろう。
 神様、わたしの命をおとりになってもかまいません。どうぞ修治さんを救ってあげて下さいませ。あのかたの幸せのためなら、わたしはどんなことでもいたします。お願いします。お願いします。神様――

太宰治との愛と死のノート

この頃、太宰治はサッちゃんに身のまわりの世話をしてもらいながら、人間失格、如是我聞、グッドバイという三作品を書いているのですが、二人ともとにかく毎日が精一杯だったようです。
金銭的には貯金が底をつき始め、太宰治の体調はますます悪くなり、終いにはまわりがみんなして太宰治をいじめているかのように見えてきた。
サッちゃんの遺書にも「(修治さんを)みんなしていじめ殺すのです。」と書かれていて、太宰治も1947年12月2日の堤重久宛のはがきで「実はね、いろいろ、あぶねえんだよ。(略)いろいろと人の悪口も言ひたい、安心してそれを言へる相手は、誰も無いんだよ。みんな、イヤらしくていけねえ。乞食みたいな表情をしてゐる」と書いていることから周囲との関係性が太宰治にとって負担になっていたことが伺える。そうしてサッちゃんに「みんなが、僕を、僕を」と泣きついていた。

こういうやりとりがあったのは心中する半年ほど前であり、その後、この日記には書かれていない空白の時間の中でなにか決定的なことが起こり、ふたりは心中に向かっていったと思われます。

太宰治は恐ろしさを抱えながらもまわりに心づくしの奉仕をし続けたようですが、そんな太宰治が抱えていた恐ろしさを癒し、太宰治に対して心づくしの奉仕をし続けたのがサッちゃんでした。
世間という敵から逃れるようにして、ふたりは心中を決めたのかもしれない。ふたり一緒なら、愛がもたらす万能感や安心感の中、恐怖や心細さが和らいだのかもしれない。そんな想像もできます。

もう一人の心中作家である有島武郎は「愛の前に死がかくまで無力なものだとはこの瞬間まで思はなかった」と言いながら、愛の絶頂のために、最も自由に歓喜して死を迎えるために華麗なる心中を遂げたようですが、太宰治の場合はもう少し「弱さ」に引きずられたような心中だったと思います。

「生きて責任を最後まで果たすべきだ」というのは強い側に属する人たちの常套文句だと思うけれども、そうやって弱さや逃げを否定するような不可視の圧力が蔓延していること自体が、一部の人たちの息苦しさや苦痛を生み出して、より一層生きづらい世界を形成する。弱さの否定は決して「正しい」ことではないということを身をもって、全てを投げうって、太宰治は伝えようとしたのかもしれないと感じます。
そんな中で、太宰治の弱さを心の底から尊び、弱くあることを大事に大事に慈しんだサッちゃんが最期までそばにいたのは、太宰治にとっての大きな祝福だったと信じています。

■おわりに

史実の雰囲気に比べると、今のところ文ストの太宰さんは女に頼らなければいけないほどには切羽詰まっていなさそうではありますよね笑
だとすれば、女性との関係性が軽く希薄な状態で維持されていること自体が、太宰がひとりで生きていてこれからも生きていける見通しがあることのひとつの証明になっているのかもしれない。

太宰のまわりには美女というジャンルで語られる女性たちがいる一方で、その範疇にいない女性たち、たとえば鏡花や姐さんなどもいる。
美女でありながら口説かれない彼女たちは(同僚だからという理由もあれど)おそらく男と女という枠組みから外れて、人対人のフィールドにいる人たちなのかなと思うのですが、もしかしたらその領域の中でしか太宰の心には接近できないのかもしれないという感覚も個人的には持ってたりします。そしてそこは確かにお題主様がいうように、見た目に関する美と醜の価値基準があまり意味を成さない場所だということなのかもしれないですね。

ということで、今回もいつも通り主観100%でお届けしました。
私、今回のお題主様のお題がとても好きで(もしかして以前別の太宰のお題も下さいましたか?そのお題もほんとに好きでした)、お題を読んでいるだけでも満たされるし、お題について考えるのもとても充実した時間になって、本当にありがとうございました。
みんなの熱量を感じたり本音を聞いてみたくてお題という形をずっと続けてきていて、今回のお題は私的にこれを待ってたんだ!感のある内容でした。お題主様の人柄や文章や考え方も魅力的で、きっと素敵な人なのだろうなあとお題を読みながら妄想しておりました。またぜひ機会があればよろしくお願いします。

ではでは。お読みいただきありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?