文ストの主要テーマ「獣」について

※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。

文ストには「獣」という言葉がよく出てくる。
敦が持つ白虎の「獣」
芥川が持つ羅生門の「獣」
中也が抱える「神獣」
ヴェルレエヌが抱える「魔獣」
BEASTの「獣」

上記以外にも「獣」という言葉を使って表現されていることが沢山ある。
しかし一言に獣といっても、それぞれの獣が表している意味は少しずつ異なるような気がしている。
少なくとも、獣という言葉が表現することには「良い面」と「悪い面」の二面性があるように思う。
獣の良い面とは「思考に囚われることのない純粋な生に対する力強さ」であり、獣の悪い面とは「理性を失い、制御不可能に暴走する感情と欲望」。
言葉を変えれば、それは「神性vs魔性」であり「吉vs凶」なのだろう。

敦と中也が獣の良い面を抱えていて、芥川とヴェルレエヌは獣の悪い面を抱えている。
そして文ストではその両者がぶつかり合う物語が描かれている。


そもそも獣が文ストのメインテーマとなっている理由は、中島敦の『山月記』が獣をテーマにした物語だからだと思われる。

山月記の主人公である李徴は、己の羞恥心や自尊心という感情にさいなまれて、ある時から虎に変身してしまう。虎になってしまった彼は、次第に人間だったころの記憶を忘れ、無意識のうちに獣として血肉を喰らい、夜空に咆え猛るようになる。
しかし時々ふと人間としての自分を取り戻すことがあり、その間に過去の自分や己の心の内について考えを巡らせる。
そしてそのとき李徴はこう言う。
「人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だ。」

性情とはその人の心情や気質。人の抱える猛獣とは、その人の持つ感情や心そのものとも受け取れる。
文ストで獣という概念がよく出てくるのは、李徴が言うように、誰しもが心の中に猛獣を飼っているという前提に立っているからなのだろう。

そして李徴はさらにこう述べる。
「己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。」

彼の心の中に抱えるものが彼の外見をそれにふさわしいものに変えてしまった。虎という外見は李徴が内に抱える虎がそっくりそのまま反映されたもの。
そして李徴の抱える虎とは、彼の羞恥心が形を成したものであった。
しかし人それぞれ抱える心情が違うように、抱える獣も異なる。
敦の抱える獣は、神獣とされる白虎であった。
それはすなわち、敦が心の中に神聖な何かを抱えていることを表しているのだろうか。

人間は誰でも猛獣使いであり、全員漏れなく内に獣を抱えている。
しかしその獣を神獣に育てあげることだってできるのだ、というメッセージがここには隠されているのかもしれない。
内なる獣を魔獣とするのか、神獣とするのか、それはひとりひとりの心、すなわち獣を飼育する自らの手に委ねられているのだろう。

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