〈DA考察①〉異能力の正体を映画DAから読み解く

※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。

敦が白虎を受け入れる過程がメインテーマとして描かれている映画DA。
果たして敦が受け入れた白虎とは一体なんなのか。
芥川が手懐けている羅生門や鏡花が受け入れた夜叉とは一体なんなのだろうか。
異能力の正体について考えることが、DAをより深く理解するための助けになりそうなので、DA考察はまず異能力の考察から始めようと思う。

結論から書くと、異能力とは本人の持っている感情や欲望、思想の突出した部分が、凝縮し、力を持ったもの、なのかもしれない。
その突出している部分がより本能的な感情に近いものであれば獣として暴走する異能力となり、より思想に近いものであれば中立的で実用的な異能力となる。
あくまでも考えられる可能性のひとつにすぎないのだが、こういう解釈に従ってDAを読み解くときれいにまとまるので、この解釈で考察を進めてみることにする。

敦の個性には「死への恐怖が異様に強い」という面があると思う。
そしてそれは敦の生への執着でもあるのだが、敦の個性であるこの恐怖心こそが虎を生み出したのかもしれない。
敦の場合、異能者と異能力は反転した関係になっている。
敦が持っていた死への恐怖が反転し、殺そうとしてくる相手を攻撃する凶暴な虎の形になった。
虎は敦を守るものであり、死から遠ざけるものであり、敦の死への恐怖心そのもの。

芥川も似たような解釈ができそうだ。
芥川の異能は服を操る能力である。なぜ服?とずっと思っていたが、もしかしたら貧民街での生活に関係があるのかもしれない。
貧民街では食べ物さえも手に入らないような過酷な生活を送っていたようだが、服だけは身に着けていたと思われる。
服は幼い芥川の唯一の所有物だった。
貧民街で仲間が襲われたとき、芥川の復讐心がいつの間にか服を武器に変え、それを異能力にしたのかもしれない。
羅生門は初めはほんの小さな刃物にすぎなかったという。鍛錬するうちにそれが大きく長く進化していった。
羅生門は貧民街で自分たちを守ってくれる唯一の武器だったため、その過程で芥川は羅生門を受け入れ、それとともに成長していくことを決めたのだろう。
芥川が羅生門に居心地の良さを感じているのは、貧民街での経験故なのかもしれない。

鏡花の場合、異能力は母親のものだった。鏡花の母がどのような人だったのか、あまり情報は多くないので夜叉自体の考察はできないが、鏡花が受け継いだ夜叉が母の感情や思想から生まれたものだとすれば、夜叉は鏡花の母自身ということになる。
鏡花が母の姿を通じて夜叉を受け入れたのも、異能力のこのような性質のためだったのかもしれない。

話をさらに発展させ、他の主要メンバーの異能力も同じような見方ができるのか、考えてみたいと思う。

国木田は理想に燃えている。手帳に書いたことを絶対に実行し、現実のものにするんだという執念のもと、毎日を生きている。「手帳に書いたことを現実化させたい!」というその強い欲望が異能力に転じて、書いたものを現実にする独歩吟客になったという解釈はむしろしごく自然のようにすら思える。

森の場合は金髪幼女へのどうしようもない執着と欲望が、エリスちゃんを生み出した。これの補足は割愛する。

では太宰はどうか。
人の持つ感情や思考なんて所詮幻想にすぎない無価値のものである、というのがもともとの太宰の思想だった。異能力が感情や思想の結晶であるならば、それを無意味なものにする異能無効化の力は太宰にふさわしいように思う。
(字数の制限で書ききれないので、他のキャラの考察はまた別の機会に)

さて、「思想」から生まれた異能力は、理性を発端としているので、敢えて理性でさらに制御する必要はないと思われる。
しかし恐怖や復讐心などの「感情」によって生まれた異能力は、本能の産物であり、放っておいたら暴走する。それを制御するために異能者本人の理性が必要になるのかもしれない。
敦の異能は、相対する者をすべからく攻撃してしまう恐怖心の化身。しかし人を死なせたくないという強い理性も敦の中には存在している。その理性が本能を鎮め、虎の暴走を抑えているのだろう。

DAで敦は攻撃的な自分の異能が、自分の生きようとする力なんだと気づいて受け入れた。
凶暴な虎が自分自身から生まれたものだと知るのは怖いし、それを受け入れるのはもっと怖い。
その葛藤がDAで丁寧に描かれ、映画の最後に「それは僕自身だ!」と言って受け入れたシーンは何度観たって心が震える。

暴走する本能、醜い欲望、認めたくない自分の姿。
異能力という目にみえる形の現象を通じて、それらが一度他者になり、再びそれを自分自身に還元し受容していく。
DAで敦が受け入れた白虎とは、紛れもなく敦自身だったのかもしれない。

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