基次郎について語る(お題箱から)
※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。
※お題箱に頂いたお題への返信です。
頂いたお題はこちら:
ものあしさんこんにちは。先程たまたまものあしさんの考察記事を見かけ、非常に興味深く読ませていただきました。
私は梶井基次郎を推している者なのですが、彼についてものあしさんの見解を是非伺ってみたいと思いお題を送らせていただきました。
物語が進むにつれて、文ストでは登場時には明かされなかったキャラクターの一面や過去が明らかになるという流れがあると思います。梶井についても異能が思っていたのと違うというくだりがありました。梶井は物語の中で脇役ではありますが、意外と見せ場も多くゲームへの露出も多いなど優遇されていると感じるので、この流れが黒蜥蜴メンバー(血縁関係が明らかになる、過去が語られる、他組織への所属が明らかになる)などと比べると弱いのではないかと感じています。(私が単に梶井が好きで注目しすぎているだけかもしれませんが……)
また現在の梶井は単なる快楽主義の研究者として描かれていますが、生に執着する森鴎外(宇宙大元帥)のもとで死について研究をしているということもあり、何か心に秘めた想いがあってもおかしくないのかなと感じます。特に文ストのキャラクターは皆それぞれの信念のもとに行動している点が魅力だと思うので、一見快楽主義の梶井にも信念が隠されているのか気になります。
ものあしさんは梶井について、隠された秘密や過去がまだあると思いますか?個人的には梶井に何か大きな過去や陰謀があるとしても、何もなしにただ研究が楽しいだけだとしても、どちらも美味しいので両方アリだと思っています。
梶井さん推しの方からのお題…めちゃくちゃに興奮しました…!!
私も梶井さん、結構好きです。マッドサイエンティストが好きです。
でもお題の内容を拝見していて、好き度合いは到底お題主様には叶わないなと察知しました。
「生に執着する森鴎外(宇宙大元帥)のもとで死について研究をしている」という認識をされているところとか…たまらぬ…!
お題主様の梶井さん愛を感じられてこちらまでほくほくしました。
梶井さん、もともとは出オチ的なキャラとして設計されていたらしいです。カフカ先生がインタビューでそう言ってました。
それとこんなことも言ってます。
私にとってはすごく衝撃的な情報だったのですが、梶井さんは「わざと」あの性格を選択しているそうです。この選択の裏側にあるもの、紐解いてみたいですね~!
文スト博のキャラ解説で梶井は「神に最も近い男」と言われています。
■「わざと」の裏側
梶井と言えば、対与謝野戦と、対ホーソーン戦が印象的ですよね。
そして梶井はひたすらによく喋る。
よく喋るのは、たぶん答えを求めているからではないかなと思うんです。
ねえねえ、君はどう思うの?
僕の考えではこうなんだけどさ、君それにどう反論するの?
真実知ってるなら説明してみせてよ
みたいな。
科学では答えが出せないものを科学者じゃない人たちに聞いてまわって、相手を見下したり信仰を馬鹿にしたりして、おちょくっているという感じでもあって。でもやっぱり答えを知りたいから戦いに出向いて敵と対話しているような。
「生きる意味を探す人」の派生形だと思うし、科学の領域から生と死の真実を浮彫にしようとする役回りがあるのかなと考えています。
だけどこういう人ってなぜか愚か者扱いされるのが文ストの通例なんですよね。与謝野さんに「お前がアホだからさ」とか言われちゃったり。
そういう点では太宰さんと共通している部分があると思います。
太宰さんは生と死について頭脳や形而上学的な領域から真実を暴き出そうとしている人で、その結果、生の無意味さを悟るのだけど、やっぱり織田作に「お前は愚かだ」と言われちゃう。
科学者としての持論を突き詰めた先にある「生死の価値観」は必ずしも一般の人には理解されないものであり、その孤独から少しでも目を逸らすために性格を変容させてごまかそうとする。道化という技を身に着けて生きることを選んでしまう。
その結果の「破天荒な性格」というのも考えられますかね。このあたりも、やっぱり太宰と似ている部分がちょっとある感じがします。
そんな中で、森さんは医師でありながら、生と死についてかなり冷酷な捉え方をしている人のはずで、感情的なものを排除して物事を捉える科学者的思考を持っている人だと感じます。
なのでこの二人は命に対する認識の仕方が似ているというか、「現象」として理論で命を捉える非情さは、二人に共通するものであって、梶井さんはそこに自分の理解者としての森さんの姿を見ているという可能性もある気がします。それ故に、宇宙大元帥として崇めているのかも?
太宰さんと似ていると言ってきましたが、ひとつ決定的な違いがあるなと感じるのは、梶井は太宰のように無意味さに闇を見出さないというところなんですよね。
なぜ梶井が闇に包まれないかと言えば、梶井は神をちゃんと見ているからなんだろうと思います。神の声を数式を通じて聞ける強さ。この強さが梶井が独占する決定的な強さなんじゃないでしょうか。
実際、理論物理学者たちってなんかわかんないけどめちゃ強いメンタル持ってるなという印象があって(個人的な主観です)。
身近なもののふるまいから宇宙の摂理にいたるまですべてが完璧に機能していることを知っていて、その完璧さや美しさに陶酔できる人たち。
梶井はそういう「科学者の精神的なタフさ」がとてもよく描き出されているなあと感じます。
■死を克服する野望
科学では超えられない領域に死があると梶井は考えているようですが、科学者としてその限界を超えて、死を解明したいという想いは多少持っているのかもしれないですね。
実験室レベルでは死は可逆的な反応にすぎないのに、現実では死という現象を止められる科学者はどこにもいなくて、もどかしい悔しいみたいな。
もちろんそういう梶井の裏側に「大切な人を喪失してしまったつらい過去」みたいなものを想像できなくもないですが、科学者としての純然たる探究心から生まれる動機のほうが個人的には梶井にしっくり合うかなという感じがしてます。(異論はもちろんいくらでも受け付けます)
生命工学の観点から死を解明し克服したいという科学者としての野心が、死を克服したいという医師としての森さんの野望(仮)と一致していて、共通の目的意識の中で森さんの配下となって研究をしているというのも考えられますかね。
とは言ったものの、共喰いの檸檬花道の台詞を見てると、この男、森さんのことを「お金を援助してくれるいい人」としか思ってないかも、と少しばかり悟ってしまいました。
理系の研究って、いかに研究費を援助してもらえるかにかかっているというか...色々なよくわからない機械とか必要だったりしますしね...お金があればあるほど研究環境は整うわけで。
そういう意味で、森さんに死なれたらお金恵んでくれる人いなくなって困るー!って戦ったのかもですね。そういう明るいやつだと思います、梶井は笑
もちろん森さんが、研究費の工面を交換条件として、なにか個人的な研究を梶井に委託してるという可能性もあったりしそうですけれども。
■文豪にとっての肉体的な生と死
この話は、梶井とは直接的には関係ないですが、肉体的な生と死にこだわる文豪というのは、よく考えてみれば結構違和感のあることでして。
そもそも文ストに登場する文豪たちは、もとはと言えば死人じゃないですか。皆さまお亡くなりになられて、肉体は灰となり、魂は天界に属するものとなっている人たちなわけで。
その魂をちょっとばかし天界から拝借して、文ストは作られているはずなのですよね。
さらにいえば、文豪というのは己の魂を文字に変換して作品の中に込めることができる人たちで、文学が存続する限り、彼らは意識の上では不滅だと思うんです。
そういう人たちが、文スト世界の中で肉体的な生死にこだわるのはなぜか?という根本的な疑問がありましてですね。考えすぎといえば、考えすぎなんだけども。
そこで思い出すのは、中島敦が死に際に残した言葉でして。
涙を溜めて「書きたい、書きたい」「俺の頭の中のものを、みんな吐き出してしまひたい」と言いながら中島敦は息を引き取ったと言われています。
書き続けたいのに身体がそれを許してくれなかった、そういう文豪は結構いるのではないかなと。
文スト世界で、小説家になりたいけどなれない人が描かれたり、白紙の本に書く権利が聖杯のように扱われていたりするのは、文豪たちのそういう無念さを表しているようにも感じます。
生きていなければ新しい本は書けないし、死とは自分たちから夢を奪ってしまうものであって、彼らは肉体無き今、もう二度と何かを書くことができない。だけど書きたいという想いだけは魂に残り続けている。そういうところから肉体的な生死への関心に繋がっている、みたいなこともあったりするのかなあとぼんやり考えています。
梶井さん、これからも登場してくれたら嬉しいですね!
新鮮で面白いお題を頂き、ありがとうございました!!
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