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カント『純粋理性批判』よくわかる解説①

1)『純粋理性批判』が問題にしていること。

 「世界には果てが在るのか」「人間は死んだらどうなるのか」。誰でも一度はこんな漠然とした疑問を持ったことがあるのではないだろうか。考えたところで答えは出そうにない。答えは出そうにないけども、まったく疑問に思わない、というのも変だ。一般的に、大人は普段そんなことは気にも留めないが子供はふとそんな疑問が頭をよぎる、大人もごくたまには考えるという具合だろう。「まったく疑問に思わない」のだとしたら、それは「すでに答えが出ていることにしてしまっている」からだろう。このことは、宗教や科学の存在がそれを雄弁に物語っている。「自分では答えられないけれど、神様だったらきっとご存じだ」、「偉い物理学者だったら知っているはずだ」ということで、その言葉を信じればもうそれ以上考えないで済む、というわけである。しかし、「仮に聖書に書かれているように、神が天地を創造したのだとしても、それでは神自身はどうやって存在したのか」、「ビッグバンから宇宙が始まったとしてもそれ以前には何が在るのか」、と人がさらに重ねて疑問を持つことは全く可能であるし、それは人間が理性を持つ限り、自然なことである。いくら「考えるな、信じよ」といっても、素質としてそういう問いを立てる権利が現実に存在する以上は、それを万人に強制するのは無理である。そうして、こういう疑問は無限に進む。
 では、こうした問いに答えるためにはどうすればいいのだろうか。常識に反してこのような問いに対して経験によって答えることはできない。私たちは経験によって納得したことや確信したことをそのまま一般的な命題に仕立て上げ、その普遍性を主張するのだが、そうしたやり方ではこの問いに答えることは原理的にできないのである。

「この種の認識は、感覚的な世界を超えたものであって、経験が導きの糸を示すことも、正すこともできない。」(『純粋理性批判』序論第九節)

そして、実はカント以前の伝統的な形而上学はこれらの問いに常に答えようとしてきた。

「純粋理性にとって避けることのできない課題とは、神、自由、不死である。この課題を究極の目的として、すべての準備をそなえて、ひらすらこの課題の解決を目指す学を形而上学と呼ぶ。この学の取る方法は、最初は独断論的である。すなわち、理性はこのような大事業を遂行するだけの能力がそなわっているかどうかをあらかじめ吟味せずに、確信をもってこの事業を遂行しようとするのである。」(『純粋理性批判』序論第九節)

形而上学には「理性がこれらの問いを生み出したからには、理性によってこれらに答えることができる」という自負があった。たとえば、「世界の始まりはどうなっているのか」という問いに対して、物理的な観測データによって答えることはできない。それが観測されたならば、「では、それ以前はどうなっているのか」という問いが直ちに成立してしまうからである。つまり、「世界の始まり」についての問い自体が、絶対的で究極的な概念を最初から問題としており、それは理性自身の関心を端的に表現しているのである。そして、その究極的な関心が、カントによれば、神、自由、不死にほかならない。だからこそ、こういう問いに対しては、経験によって答えることができない。むしろ、理性自身がすでに掴んでいるはずの究極的な理念を明らかにすることで自ずから答えることができる、と形而上学は考えたのだ。
 だが、理性がこうした形而上学的な問いを立てる素質があることは明白であるとしても、本当に理性は形而上学的な問いに答える力があるのだろうか。カントはこのことこそが、長い歴史の中で見過ごされてきた、と考える。

わたしたちとしては、どのようにして獲得したのかも不明な認識と、どのようなものを起源としているかも不明な原則を信用して、経験の領域を離れるとすぐに、一つの建物の建設を始めるべきではないだろう(またこの建造物の土台を、あらかじめ詳細な研究によって確かめることもしていないのだ)。むしろ次のように問いかけるほうがもっと〈自然なこと〉のように思われるのだ。すなわり、知性はこのようなアプリオリな認識のいっさいをどのようにして獲得したのだろうか、このアプリオリな認識にはどのような範囲があり、妥当性があり、価値があるのだろうか。(『純粋理性批判』序論第十節)

私たちが経験という試金石によってその真偽を確かめることができないような何らかの形而上学的な概念を持つことは事実だとしても、だからといって、それを素朴に信頼して直ちに何らかの形而上学を打ち立てようとすべきではない。否定できないから真理である、というのは暴論で、検証や批判が可能でなければならないだろう。実際、宗教は互いに異なる神話を語っては、互いの正義を譲らないし、哲学もまた様々な「形而上学」を生み出しては互いの体系を否定し合ってきた。この点、数学や幾何学が何世紀にもわたって確実な知見を世代を超えて受け継ぎ、発展させてきたこととは対照的である。だから、人間が形而上学を生み出す素質を持っていることは疑いがないとしても、形而上学が果たして成立するかどうかは十分に疑うべき根拠と権利がある、とカントは考えた。形而上学的な問いを巡る様々な「答え」が互いに矛盾し、常に闘争状態にあるのは私たちにそもそもそれに答える力がないからではないのか? そこでカントは、形而上学的な概念の起源を明らかにしつつ、「理性は何をどこまで認識することができるのか?」という問題意識のもと、理性の限界について探究していく。その探究を記したのが、『純粋理性批判』にほかならない。

2)『純粋理性批判』の課題~アプリオリな総合判断は如何にして可能か?~

 それでは、理性がその限界を超えて形而上学的問いに挑むときに必ず出現する闘争状態はなぜ、永い間収束することなく、建設的な未来を見出すことができなかったのだろうか? それは、従来の形而上学が「理性の認識能力はどこまで及ぶのか?」という問題を十分に精査せずに、自らが手にしたアプリオリな概念だけで直ちに体系の構築に向かってしまったからである。カントによれば「ア・プリオリな総合判断は如何にして可能であるのか?」という課題に従来の形而上学は気づかなかったために失敗したという。そもそも、学問が可能であるためには、全く経験に依存することなく、理性が自分自身の力のみで知識を拡張させることが可能でなければならない。これが「アプリオリな総合判断は如何にして可能か」という問いの内実である。そして、実際、カントによれば、以下の二つの学問においてはアプリオリな総合判断は可能でなければならない。

数学はすべて総合判断であり、アプリオリな総合判断の実例が存在する以上、「アプリオリな総合判断は如何にして可能か?」という問いは可能。
アプリオリな総合判断が全く不可能であるとすれば、闘争状態にある形而上学だけでなく、自然科学も不可能になる。自然科学が可能であるためにもこの課題は遂行されねばならない。

このように、数学や自然科学が現に成立している以上、「アプリオリな総合判断」の可能性の条件を明確にすることはできるはずなのである。そして、その条件を明確にすることができれば、「理性の認識能力はどこまで及ぶのか」という問題にも決着をつけることができるはずである。

※「ア・プリオリ」というのはラテン語で、“あらかじめ”“先立って”と訳すことができ、ここでは“経験に先立つ”“生まれつき”という意味で用いられている。また、「総合判断」というのは、主語を分析しても述語が導き出せない判断のことである。主語にないものを述語で付け加えるためには、普通は経験を手引きとして参照し、それに依存しなければならないが、経験に依存すれば認識の普遍性と必然性が失われる。逆に、主語を分析すれば経験に依存することなく普遍的で必然的な判断を行なうことができるが、それだと新たな知識を獲得することができない。主語概念を分析するだけでは、知識は増えないし、経験に依存しては普遍性と必然性が得られない。

 では、アプリオリな総合判断の可能性の条件はどのようにして、探求することができるのだろうか? カントがこの検証を可能にするために、議論の根底とするのは次のことである。

①すべての認識は経験によってはじまる。(序論第一節)
②私たちの認識は何らかの合成物である。(序論第二節)

カントによれば、①は全く確実であり、誰もが承認できる大前提と見做し得る。仮に、「すべての認識は白紙である」と主張する経験論者はもとより、経験に全く依存しない先天的な知識の存在を主張する合理主義者でさえも、少なくても時間的にみて、私たちが知識を現実的に所有するのは生まれた後のことであり、仮に先天的な知識が存在するとしてもそれとして想起するためにはそれなりの経験とプロセスが必要だということは認めざるをえない。他方、②もまた真理であり、私たちが現に所有している知識が合成物だという立場に立たないと、そもそも「知識の起源は何か?、そこに先天的な何かが含まれているのかいないのか?」という問いが成り立たない。極端な経験主義者であったヒュームは必然性の観念も含めてすべてを経験に起源を帰すが、それはそういう説明が可能である、というだけのことである。ヒュームは、たとえば「赤いリンゴ」という印象がまず直接的に体験され、それを別のときに想い出す際に現れるのが「赤いリンゴの観念」というように印象と観念の結びつきで一切を説明し、必然性の観念も習慣の産物に還元する。けれども、印象も観念もいずれもそれまでのすべての哲学同様一個の認識対象として理解されていることには変わりがない。しかし、こういう枠組みにおいては、そもそも認識が如何にして成立するのか、という認識論的な問いが成り立たない。しかし、実際には「赤いリンゴ」の認識も、経験的な要素だけではなくて、空間とか時間という枠組みがなければ成り立たないし、モノがモノとして認識できる実体とか様態の枠組みも必要である。経験的な要素がそれ自体として認識対象なのではなくて、それが様々な要素から形成されている混合物なのだ、という観点に立たないと、認識論的な問題設定自体が成り立たない。また、「すべての物体は重さを持つ」という場合のように、一見、まったくアプリオリな命題であるように見えても、よく見ると、「重さを持つ」といった経験的な要素が混入していたりする。したがって、認識が様々なプロセスを経て形成された混合物である、という前提に立たないと、認識から純粋な要素を抜き出したり、経験的な混入物を排除したり、という作業が成り立たないのである。現に成立している認識から出発して、そこから経験的なものを排除して何が残るのか、ということを検証しない限り、一切が経験に還元できるのかどうかは証明できないはずで、ヒュームの主張もまた仮設の域を出ないのである。それゆえ、「アプリオリな総合判断が如何にして可能か?」という課題を遂行するためには、この二つの根底を認めて、まず最初に現に私たちが所有している知識から経験的なものを徹底的に取り除いてそのアプリオリな枠組みを炙り出す、という作業が不可欠なのである。

3)コペルニクス的転回と批判哲学

  ところで、以上の批判哲学の構想をカントは『純粋理性批判』第二版の序文において「コペルニクス的転回」として纏め上げている。

 これまでわたしたちは、人間のすべての認識は、その対象にしたがって規定されるべきだと想定してきた。しかし概念によって、対象について何ものかをアプリオリに作り出し、人間の認識を拡張しようとするすべての試みは、この想定のもとでは失敗に終わったのである。だから、[認識が対象にしたがうのではなく]対象がわたしたちの認識にしたがって規定されねばならないと想定してみたならば、形而上学の課題をよりよく推進することができるのではないだろうか。ともかくこれを、ひとたびは試してみるべきではないだろうか。形而上学の課題とするところは、対象をアプリオリに認識する可能性を確保すること、すなわち対象がわたしたちに[経験によって]与えられる以前に、対象について何事かを確認できるようにすることにある。だから、この想定はこの課題にふさわしいものなのである。
 この状況はコペルニクスの最初の着想と似たところがある。」(『純粋理性批判』第二版序文Ⅴ11より)

「アプリオリな総合判断が可能であるか」という批判哲学の問いの前提には、「認識が対象にしたがうのではなく、対象がわたしたちの認識にしたがって規定されねばならない」という想定がある。認識が対象に従ってしまったら、対象は認識に対していわばアポステリオリにないし経験的に与えられざるを得ず、アプリオリな認識の可能性は最初から閉ざされてしまう。アプリオリな総合判断の可能性の条件を探るためには、「私たちの認識の枠組みから、予め対象について何が規定できるか」という問いを立てる必要がある。そして、対象が与えられる以前の認識の枠組みを調べるためには、前節で述べた議論の二つの根底を認め、認識が合成物である、という前提に立って、その合成物から注意深くアプリオリな要素を炙り出す必要があるのである。そして、この結果、批判哲学の構想は、以下の重大な制約の下に成り立っていることが判明する。それは、私たちが認識するのは物自体ではなくて、モノの人間向けの顔つまり現象に過ぎない、という点である。つまり、物自体と現象を区別し、私たちの認識の妥当性はあくまで現象に対して問うべきである、という制約である。この点は重要である。なぜならば、神や魂や死後といった形而上学固有の対象は、そもそも経験的に与えられるものではありえず、それゆえ、それらは単なる現象ではあり得ない。つまり、それらはそもそも物自体の領域に属すると考えられるために、カントの批判哲学の構想においては、予め、その認識の可能性が排除されることが容易に予想されるからである。その代わり、この制約を受け入れれば、カントが繰り返し強調する点、つまり「対象をアプリオリに認識する可能性を確保すること、すなわち対象がわたしたちに[経験によって]与えられる以前に、対象について何事かを確認できるようにすること」について批判的に考察することが可能になる。これについてカントは次のように述べている。

「わたしたちの経験的な認識は物自体としての対象によって規定されていると考えるならば、この条件づけられないものは矛盾なしには考えられないのである。しかし、わたしたちが事物について心に思い描く像[=表象]が、物自体としての対象によって規定されているのではなく、反対に現象としての対象こそが、わたしたちがそれを心に思い描く方法によって規定されていると考えるならば、この矛盾は消滅することが分かる。さらに、条件づけられないものは、わたしたちに与えられ、認識しうる事物においてはみいだすことはできないが、わたしたちが認識することできない物自体のうちには、おそらくこの条件づけられないものをみいだすことができるだろうということも分かるのである。」(『純粋理性批判』第二版序文Ⅴ12より)

このように、『純粋理性批判』の課題とは、「理性にそもそも形而上学の問いに答える力があるのか」という問いを、ひとまず「対象認識」という理論的なレベルでの領域に限定し、その領域で「対象について何ごとかアプリオリな判断を下す」という形而上学の課題を解決するとともに、物自体と現象を注意深く区別すること、すなわち、経験的には如何にしても与えられない形而上学固有の対象は物自体の領域に属することを認め、そうして理論的な理性使用の限界を厳密に定めることにあるといえよう。このような課題をカントが遂行した理由は容易に想像できる。すなわり、カントは一方で自然科学の学的根拠をこの課題の遂行によって基礎づけるとともに理論的な理性使用の要求をこれによって満たそうとしたのであり、他方ではこの理論的な理性使用の限界を十分に定め、実践理性と区別することによって逆説的に理性そのもの可能性を開拓する意図があったのである。理性がその要求を自らに対して満たすためには、自らに対して必然的な制約を課す必要がある、ということがカント哲学の教えである。『純粋理性批判』を紐解く場合は、この批判哲学の壮大な構想を理解しておくことが重要であろう。


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