「第三省察」は何を論じているか?
「神の存在証明」とは何か?
参考①:「神の存在証明」はナンセンス?~カントの「神の存在証明」批判
「内なる観念」から「観念の外」へ
参考②:デカルトの神の存在証明って所謂「循環論証」じゃないの?
私は神に成り得るか?~神の存在の第一証明~
私の存在は贈与された~神の存在の第二証明~
結語~「循環」の解決~
以上が「第三省察」の要点となります。私たちが通常抱いている神概念と、デカルトの神概念とは異なっていることがわかるでしょうか。デカルトは「第一省察」から、徹頭徹尾「精神から感覚を引き離す」ということを具体化してきましたが、上に見たように、感覚的な経験がベースになっているような常識的な神概念は容易にその存在が疑われ得ます。これに対して、デカルトは絶対に私の思考が恣意的にできないような仕方で、「欺く神」という想定にも耐えうるような仕方で、神の観念を精錬させています。この精錬の過程がデカルトの神存在証明を理解する上でのひとつの鍵だといえるでしょう。すなわち、私がいかなる意味で有限な存在なのかを正確に知る、という思考のプロセスを通して、彼は神の存在証明を有意味なものとしている、ということです。「私自身が神となることは有り得ない」「私の存在は神よって与えられ、維持されねばならない」「神の観念のうちには私が真と認識するもののすべてが原型として含まれている」といったことを本当に知らなければ、数論や幾何学でも容易に疑いうるからです。しかし、今や、神の何たるかと自分自身が何者であるかをはっきりと知り始めているので、もはや私が明晰判明に認識したことについて疑いが生じる危惧はありません。デカルトが神は最高完全者であるから欺かない、と述べるとき、それは神の観念が真なる観念であり、捏造できないことを根拠にしています。捏造できないということは、このことは、実際に私よりも完全な存在によって私が創造されていることと同じ意味です。私は自らが創造されたものであることを知りつつ、存在しています。このことは私が今夢を見ていようとも、いささかも変わりない、これが「第三省察」の結論です。
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