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「生きて」と言えない

鬱病の人に「がんばれ」と言えないように、死と隣り合わせにいる人に「生きて」と言うことができない。死の淵まで追い詰められるまで頑張って生きてきた人に、これ以上生きてというのは酷すぎる。マラソンでゴールした人を引きずり起こして、もう一度同じコースを走れとは言えない。

生きる道が見つからない、どうやって生きていけばいいのかわからない、という時に、損得なく純粋な信頼関係で繋がれた人に「生きていてくれれば、ただそれだけでいいから」と言われることが、最後の一筋の光になるかもしれない、とは思う。自分の人生について意味はわからなくても、その目の前にいる大切な人を守るために、あと少し自分の命で良ければと差し出すことができるかもしれない。

そして「生きてくれればそれだけでいい」と言うその人も、嘘偽りのない心からの叫びで、その人をつなぎとめたいと思って言う、それが間違いだとは全く思わない。

だから、「生きて」と言える人には、そう言ってほしい。生きることそれだけで価値のあることだと思うとか、生きることで私を救ってほしいとか、どういう動機でも構わない。

マラソンを走り終わったあとでも、本人があと10メートルなら走れると思うかもしれない。或いは、走ることはできなくても歩くことならできると思うかもしれない。そして一歩も歩けないとしても、「生きて」と言わなかったことで、その人が生きることを諦めてしまったと後悔しないように、「生きて」と言ってほしい。

強い意味のある言葉だと思う。大切な言葉だ。

でも、私には言うことができない。言う権利がない。生きたその先に、明るい景色を見せてあげられる強さが私にはない。本当は、私も「生きて、お願いだから」と言いたいのに。

だから、その代わりに言う。あと一回だけ、話を聞かせて、と。語られるべきだった言葉がまだ残っているはずだと、それは心の底から思うから。

自分の人生であれば、あれやこれやと悩んで「あれ、詰んだな」とすぐ思うのに、他人の人生にはその先に無数に広がる道が見える。逆に他人からは私の人生は詰んでなんかいなくて、先が見えるんだろうな、と思う。

道があるのは知っているけれど、その道を歩くのが怖い。その道の先で今以上に苦境に立たされる自分が見える。だから、詰んだな、と思ってしまう。できるのは立ち止まり続けることしかない。勇気を持って歩き出して大怪我をしたくない。

そういう気持ちがわかるから、こういう道もあるよ、こんな風に考えたらどうだろう、とにかく生きてみようよ、と言えない。

そこで私がもう一つだけ言えるのは、「詰んだ=死」ではない、ということだ。そういう国もあるかどうか知らないけれど、日本では推奨していない。

詰んだら次のゲームが始まるまで待機。それが現代で推奨されているやり方で、待機なんてつらくてつらくて、とても出来ないと思う気持ちはわかるけれど、待機のあとにどんなゲームが始まるのか、見てから死んでも遅くはない。

次のゲームだってたいして変わりはないのでは、と思うかもしれないけれど、あなたという人生を生きた人は一人もいない。本当に何が起こるか誰も知らない。

さらに言えば、この世の中には「待機」を経験せずに人生を送っている人がたくさんいる。その待機という経験は、苦しいかもしれないけれど、とても貴重でこの先必ず自分を支えてくれるし、同じように詰んだ経験を持つ人を助けることにもなる。

待機を味わった人にしか見えない景色があって、そのアイテムを手に入れた後の新しいゲームは、これまで経験してきたゲームと全く違う進め方ができるはずだ。

自分の人生なのに自分の信条を貫けないのは納得がいかないし、待機なんて冗談じゃない。でも、私もあなたも知らないことが多すぎる。寿命まで生きてもこの世の全てを知ることはできないのに、この少ない経験で人生を終えてしまうのは、早計だ。

だから、もう一度話を聞かせてほしい。もっといろんなことを見て、私に聞かせてほしい。

その話を聞くために、私は明日も生きていく。

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