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親愛なる友人へ

先日、親友からラブレターをもらった。「好きです」や「愛しています」などと月並みなセリフは書かれていなかったけれど、確かにそこにはわたしへの愛があった。恋仲ではない人から愛を投げかけられるのは、なんだかこそばゆいような、胸があたたかくなるような、気がした。嬉しいので皆さんに見せびらかすために、リンクを貼っておこう。

せっかく心のこもった言葉を贈られたので、今日はこの場を借りてその返事を書こうと思う。手紙を書いてくれた親友と、君抜きでは決して語ることのできない、もう一人の親友へ。二人ともよく食べる人だけれど、きっと食べずに読んでくれることを願って。

拝啓

君たちに出会ったのは、学部に入って間もないころだった。高校とは打って変わって雑然とした環境に放り込まれたわたしは、「新生活」の華やかさに浮ついたまま日々を過ごしていた。
初めての町で迷子になったような、知らない人のパーティーに紛れてしまったような。目に映るすべてがまだ非日常のうちに、君たちに知り合った。

正直な話、あのタイミングで友人にならなかったとしても、4年間のどこかできっと仲良くなっていたことだろうと思う。それでも、大学生活のほとんどすべての時間をなんともなしに知っている同士だからこそ、知人や「ヨッ友」を超えた、厚みのある関係を築けたのだと思う。言うなれば、幼馴染のような存在である。

思い出の一つ一つを挙げればきりがない(し、初めにもらった手紙によくまとめてくれているからそちらを読んでほしい)から、今日は君たちにもらったものを、いくつかまとめて話そうと思う。
「そんなものあげてない」とか「それはこっちだって貰ってるしお互い様だ」とか、言いたいことは山々だろうが、今日ばかりは一方的に語らせてほしい。わたしは君たちから、こんなに良いものを受け取ったんだ。

本を読むこと

わたしは元々、読書がすきな人間だった。小さい頃からよく本を読む子供として育てられてきた。ただその頃からずっと、本を読むことは娯楽以上の意味を持たなかった。それだから、高校に上がってから大学入学までの間、読書は他の娯楽にとって替わられしまっていた。

君たちはそんなわたしに、再び本を読むことへの情熱を呼び起こさせてくれた。わたしたちの4年間には、学びにも、遊びにも、他愛のないお喋りにも、常にその傍に本があった。時には「その傍に」どころではなく、本が主役となって人と人の間を繋いでくれることさえあった。

興味の赴くままに、あるいは人に勧められて、本から本へとノビノビと飛び回る姿に、わたしは大いに刺激を受けた。
知りたいから、読む。知らないから、読む。知れば知るほど知らないことが増えるから、読めば読むほど、読む。今となっては当たり前にやっていることだけれど、これは君たちから教わった技法だった。初めて知識欲たるものを理解して、その満たし方を覚えた。生憎、知識欲というのは尽きることがなさそうではあるが。

本を読む人生と、本を読まない人生。どちらも素晴らしいものだろうが、わたしは前者の豊かさを追求したいと思う。おかげで良い人生になりそうだ。ありがとう。

遊ぶように学ぶこと

君たちは、わたしの周りにいる人たちのなかでも、とりわけよく学ぶ学生だった。無論、大学生である以上学ぶことは当たり前だ。大学に通っていれば、授業も試験もレポートもある。論文も書く。そもそも、社会から「学」んで「生」きることを許されている以上、その立場を全うするのは半ば学生の義務ですらある。しかし君たちの学びは、テストとか、課題とか、そういった次元を優に飛び越えていたように思い出される。

「学校の勉強」だけが学びではない。学ぶことは決して義務感から行われることではないし、負の感情を以って受け止められるようなことでもない。学ぶことは、それ自体が若干の退屈さや苦痛を伴うことはあれど、どこまでも自由で享楽的な知的活動に他ならない。

半分趣味として学びを続けていると、「なんのためにそんなに勉強しているのか、私にはわからない」という人が在る。この手の学び方を実践している人は、大学生であってもそう多くないのだ。
下手をすると、周囲から勉強ばかりしていると揶揄われたり、挙句の果てには「人生を楽しめていない人」とレッテルを貼られて憐れみを向けられることすらある。

そんな中、身近に学びを楽しむ人間がいてくれたことは幸運なことであった。時に励まし合い、称え合い、批判し合いながら各々の学びを深める関係は、間違いなく大学生活の質を大きく上げてくれた。
この関係が維持できたからこそ、わたしは躊躇いなく、かつ独善的にもならずに学び続けることができた。この経験を糧にして、卒業後も学ぶ人であり続けられるような気がしている。

思い切って飛び込むこと

大学生というのはつくづく便利な立場である。(コロナ以前は)キャンパスに行けば人脈と専門知の塊みたいな大人がゴロゴロしているし、「○○〇大学の学生です、いろいろ教えてください」と頭を下げれば、大抵の大人は良いように物事を教えてくれる。この強みに気づかせてくれたのは、他でもない君たちだった。

知りたいことは山のようにある一方で、知り方が限られることも多くある。なんでもかんでも本に書いてあると思ったら大間違いで、自分の目で見て耳で聞いて初めてわかることなんでいくらでもある。自分ひとりでは決して見えない景色だって、たくさんある。
だからこそ、実地に足を運んだりその分野の専門家に話を聞きに行ったりすることが肝心なのである。

わたしたちは4年間であちこちに足を運び、それぞれの関心に沿ってたくさんの学びを持って帰ってきた(くわしくは彼のノートを見てほしい)。教授のや学外の大人たちの懐に、臆せず突撃して戦果を持ち帰ってくる姿勢には、たいそう触発された。
とりあえず行動してみる、他の人に頼み込んでみる、考えるより先に飛び込んでみる。それを「当たり前」にできるようになったのは、君たちを見習ってのことだった。

心のふるさと

あと数日で、長かった学生生活も一旦終わりを迎える。その段になると、当然ながら日常だったさまざまな「場」が一つずつ閉じていく。
卒業式こそ未だ終えていないけれど、ゼミやサークル、勉強会などあらゆる集まりが、頭に「最後の」を冠しながら、ゆっくりとその役目を終えていく。いや、むしろわたしがそこから離れていくと言うべきだろうか。わたしたちが去った後も連綿と続く「場」もあれば、立ち去ると同時にフッと消えてしまう「場」もある。

特に今年度に限って言えば、流行病に覆い隠されて「場」が閉じる合図がすっかり見えなくなってしまうことが多かった。最後の時を迎えるまで、その「場」が終わることにすら気付けないのである。
平時であれば、「最後の〇〇」にはなにかしらの儀礼がつきまとう。それは飲み会かも知れないし、追い出しコンパかもしれない。会が終わった後の、名残を惜しむささやかな雑談かもしれない。「場」から立ち去る前には、こんなような儀礼を行い、かつそこから意思を持って退出することを通して、ある種の覚悟を決める。その「場」を生きるのが最後であることを、自覚することが必要なのだ。
さもなければ、「場」の方から締め出されて初めて、帰属する「場」の消失に気がつくような、間抜けな事態に陥る。

人が死ぬ時って、意外とこんな風なのかもしれない。

話を本筋に戻そう。

4年間でいつの間にかできあがったわたしたちの繋がりは、数多の「場」のなかでもとりわけ強固なものだと思っている。定期的に集まっていたわけでもなければ、頻繁に飲み会を催していたわけでもない。こんなゆるやかな連帯であるからこそ、そこにはしなやかさがあった。

これから各々が自分の道を進む中で、きっと疎遠になる時期もあると思う。新生活に慣れるまではみなそれぞれ忙しいだろう。それでもこの「場」は、きっと閉じずにこの先もわたしを受け入れてくれるような、そんな予感がしている。
音もなく日常が一つずつ潰えていく中で、いつでも、願わくばいつまでも、帰ってくる場があるのは大きな心の拠り所だ。

もし万が一何かの事情で、この「場」が閉じることがあったとしても、こんなに素敵な場所があったことや自分がそこにたしかにいたことが、支えとなってくれるだろう。

敬具

すっかり長くなってしまった……
正直こんなに書くつもりはなかったのだけれど。

最後に、かれこれ10年の付き合いになった校歌から一節を引用して、ようやく筆をおこうと思う。

集まり散じて 人は変われど
仰ぐは同じき 理想の光

卒業おめでとう。



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