宮崎夏次系「僕は問題ありません」考察

 私は宮崎夏次系の作品が好きである。彼女の作品を人に紹介する時、いつもこう表現していた。「めっちゃエモいんですよね…」しかし、知り合いにその表現は雑ではないかと指摘され、また私は自分の好きなものを言語化せずになんとなくで選んでいる傾向があったため、自分の好きなものくらいきちんと言葉で説明できるようになった方が良いと思ったので、このnoteでは私が宮崎夏次系の作品で初めて手に取り衝撃を受けた短編集「僕は問題ありません」がなぜ私の心を惹きつけるのかを考察することにした。結論からいうと、自分が肯定されている気持ちになるからというのと、その肯定されている感とシュールさのギャップだと思う。
 収録されている作品を読めばわかるのだが、登場人物がどこか「変わっている」部分をもっているが、それを他の登場人物に肯定や共感をしてもらい、「変わっている」本人が笑顔になる、安堵する、あるいは涙を流すというのが共通している。人間には誰しも「変わっている」部分があると思う。それについて自分で悩んだり、他人におかしいと言われたりすることはよくあるし、ほとんどの人間なら共感できると思う。でも面と向かってその「変わっている」部分を肯定してくれる人はなかなかいない気がする。それを宮崎夏次系の作品は肯定してくれるのだ。自分には「変わっている」部分があるかもしれないが、「僕は問題ありません」と思わせてくれる。
 そして、もう一つの宮崎夏次系の魅力は先程語った自分が肯定されている感とシュールさのギャップだと思う。ここで言いたいのは、本来のシュールという意味ではなく、現実離れしているという一般に広く使われている意味でのシュールである。このシュールさは、ラーメンズのコントのコンセプトである「非日常の中の日常」とかなり似ていると思う。つまり、現実に生きている私たちとは異なる世界観で生きている登場人物の普通の日常が描かれているのである。作品を読み始めると、そこが「非日常」の世界だと気付き、そこに面白さを感じる。その面白さを味わっていると、最後に自分を肯定してくれ、心に響く。この振り幅がかなり大きく、最後の肯定がより際立ち、人の心を惹きつけるのだろう。私はラーメンズのコントも好きだが、中でも「非日常の中の日常」の面白さ+αの振り幅がある作品が特に好きな気がする。他の好きなお笑い芸人にジャルジャルもいるが、よく考えたら彼らも「非日常の中の日常」の形のコントを作っている。あとは太宰治の好きな短編でも「畜犬談」のような似た構成の作品があることに気づいた。話は少しズレたが、シュールさが最初にきて、それに浸っていると最後に自分が肯定され、シュールさがひっくり返される。「非日常の中の日常」の面白さ+αのギャップがあるもの、自分はそういう型が好きで惹きつけられるのだということがわかった。つまり、言語化ってめっちゃエモいんですよね…。

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