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アニメ『平家物語』感想 諸行無常、盛者必衰とは平家だけなのか?

 アニメ『平家物語』は絶賛の嵐で、そこにあえて厳しい意見を書くことは正直なところ、迷いました。色々面倒になることはわかりきっています。
 けれども、敢えて言いたいことはある。

 書こうと思ったきっかけは、こちらの記事です。

ドラマ『恋せぬふたり』感想(ネタバレ)…この作品の構造的な問題点を指摘する https://cinemandrake.com/koisenuhutari

 私も楽しんでみた『恋せぬふたり』ではあるけれども、理解できないからではなく、したからこそ、構造的な問題点が目につく。そう誠実に指摘するレビューです。
 こういうレビューはとても勇気がいると思う。私は楽しんだのになんだ! そういうファンはいるでしょうから。それでも敢えて、よりよくするために指摘する。それはよいことで、見習いたいと思いました。

 そんなわけで、およそレビューサイトでは絶賛が多いと思えるアニメ『平家物語』の問題点を指摘したいと思います。ファンはファンダムで楽しく褒めあっていればいいとは思いますが、それだけでは足りない人向けに考えたいと思います。

話数不足

 30分で11話で『平家物語』。時間が圧倒的に不足していると思います。この話数で日常系アプローチなら、それこそ『虫めづる姫君』あたりではいけなかったのでしょうか?

不足しているのは話数だけか?

 全体的に考証、準備、人員、予算……そうしたリソースそのものが不足していると思える描写が多い。

狂言回しのびわがうまく使われていない

 貴人に対してもぞんざいな態度。子どもっぽい話し方。未来予知能力ゆえにズバズバ言うこと。すべてがノイズとして存在していて、むしろ話に入り込めなくなりました。
 この手のキャラクターそのものは嫌いではありません。ただし、びわはあまりに雑。彼女のオリジナルエピソードのせいでただでさえ少ない尺がさらに圧迫されるわ。びわを放り出さないせいで平家の暴虐のインパクトも薄まるわ。かといってびわが偏った人物とのみ交流するため、潤滑剤としての役目も果たしているように思えないわ。
 現代人が没入感を得るためのキャラクターかもしれませんが、もうちょっとなんとかならなかったのでしょうか。しかも原作にはいないという点が何とも。

 びわは誰か? ざっと考察は目を通しました。私の見立てとしては、『平家物語』や源平合戦に興味関心がそもそもさしてない、そんな人物へのフックです。
「この展覧会なぁに? 難しいし興味ないけど来ちゃった〜」
 と、うろうろしている人がいる。そういう状態を思い出す。えー、このテーマを楽しみにしていた側からすれば、まことに申し訳ありませんが、邪魔です。

 そうそう。『麒麟がくる』の駒を「悪夢」としてびわと並列する意見もありますが、それがただ一点、「架空の人物」だけを問題視しているように思えます。こうした人物は時代劇における定番技法であり、そこは問題ではありません。むしろ日本の時代ものは、こうした市井、あるいは江湖目線がない点が弱点だと私は問題視しております。 

 吉川英治『宮本武蔵』のお通。『人形劇三国志』の紳紳と竜竜。『どろろ』のタイトルロールも、そういう役目があると思える。

 駒の場合、そういう伝統や技法を用いています。時代考証としても当時明渡来医学を学んだ女医がいたということはそこまでおかしくありません。『鎌倉殿の13人』における善児の方がよほど綱渡りの使い方です。あ、私としては善児も好きです。

 が、びわの場合は、オッドアイで未来予知という時点で時代考証も何もあったものでもなく、ストーリーの邪魔でしかない。あえて必要性を推察するのであれば、キャストといい、デザインといい、美少女萌えじゃないかと思いますが。そう思えてしまうのならばこれはまずい。

 駒とびわは、比較するのも失礼じゃないかと私は思います。

 大河で関係ないところに出しゃばってストーリーをブツギレにしたダメな人物として並べるのであれば、本能寺にまでついてきた『江』のタイトルロールとか。幕臣の功績はおろか、日本初の紙幣発明という功績まで掠め取る。おまけにいくつになってもやたらとキャンキャンしていた『青天を衝け』の渋沢栄一。かれらの方がびわに近いと思います。渋沢が土方歳三と無理にからんで土方を台無しにしたことは、しつこく蒸し返していきたい。

キャラクターデザインや演出のセンスが2000年代のようだ

 もしもこの作品が十年前に放映されていたら、ここまで厳しい評価にはならかったと思うことは確か。
 オッドアイ美少女。前髪をちょろりと垂らしたイケメンの表現。十二単を着ているのに髪の毛を編んでいる。キャラクターデザインのセンスが、どうにも2000年代のずれて滑っていた時代劇を連想させて辛い。
 具体的にどういうセンスかというと、大河ドラマ『天地人』のヘアメイク。映画『GOEMON』や『SHINOBI』あたりです。

 びわと白拍子がはしゃぐところ。大暴れ転校生のような木曽義仲。ざます言葉で話すPTAを連想させたキャリアウーマンじみた北条政子。こういうところの演出にも、何か時代を感じてしまいます。

 余談ですが、SNSで流れてくる西洋世界をベースとした漫画広告が辛いのです。当時としてはありえない前髪。髪を下ろした女性。ちゃんと時代考証をしても素敵なデザインができるのに、どうしてこうなのか。時代の制約に合わせてデザインできないのってどうなのでしょうか。ちなみに中国はこの点が秀逸です。

いや、ジェンダー観も大河の方がよいのでは?

 何か大河が嫌いで、「アニメ『平家物語』の方が大河よりいいよな!」という意見もみかけますが。いや、木曽義仲が烏帽子をかぶっていない時点でどうなのでしょう。
 
 北条政子の描写に関しては、大河がはるかに上回ります。このアニメの政子は口調からして冷たく、テキパキと、嫌みたらしい女として描写されています。
 古い悪女テンプレだと思いました。一体いつの時代なのかと。無力無能だけどひたすらかわいらしい、そんなチアリーダー的な役割を負わされた徳子と比べると顕著です。
 明るくチャーミングだけど、聡明。大河の政子の方が、中世史にも、現代の作品としてのジェンダー観でも上でしょう。

 むしろ流石といいますか。大河へ向けられる目線は厳しいですね。『麒麟がくる』の駒だって、アニメならむしろ好かれたかもしれませんね。

華流アニメにこれで勝てるのか?

 どうしてこう思ってしまうのかというと、大河のせいではありません。大河はドラマだから、比較するのであれば海外の時代劇とでもそうするのがよろしいかと思います。

 アニメ『平家物語』は、華流アニメ『魔道祖師』とどうしたって比較してしまいまして。
 

 まずはキャラクターデザイン。両作品ともに時代ものの衣装を現代の視聴者でも受け入れられるようにアレンジをしています。このアレンジセンスが、どうしたって『魔道祖師』が上に思えてしまう。

 古典の受容。『魔道祖師』をみていて感動した場面があります。魏無羨が若い女性から果物を投げられる場面です。あれは魏晋期の逸話を集めた『世説新語』を元にしています。ああ、こうして古典が現代アニメに受容されて展開されるのかと思うと、見ていてよかったと思えたのです。
 そういう感動が『平家物語』にはありませんでした。琵琶を弾いて語るところはよい。けれどアニメからは浮いていて、これはこれ、それはそれという気持ちになってしまうのです。

 現代むけのアレンジ。『魔道祖師』には、現代の学園もののような展開が序盤にあります。普遍的な青春という趣で、そこまで浮いていない。
 『平家物語』でびわと白拍子がはしゃぐ場面は、2000年代あたりの女の子がわちゃわちゃするアニメをなんとなく連想したのですけれども……源平時代にこれはないという思いが先行しました。

 ジェンダー観。チアリーダーのような徳子。嫌味ったらしい“フェミ”みたいな政子。テンプレート通りで、生きた女性というより何か別のもののよう。
 一方で『魔道祖師』はヒロインがイキイキとしています。あの政子を、態度はちょっときついけれども聡明で義侠心のある女医・温情みたいにできなかったのでしょうか。あのアニメは癒し系のヒロイン・江厭離だって、言うときはハッキリ言う。今どきのジェンダー観にしたほうが人物像が魅力的になることは確かでして。
 主に女性ファンは切り捨てるという方針でないなら、そのへんは考えていった方がよいでしょうに。

 アニメ『平家物語』は、若い世代に受けるのかどうか。
 今、華流の勢いは凄まじいものがある。若い世代はなまじ思い入れがない。

「古典を扱うにせよ、日本より中国の方がいいな」

 そうなって、『白蛇伝』だの『平妖伝』だの、はたまた金庸や古龍を読むようになるのかなぁ。それはそれで個人的にはアリだけど、どうなのかなぁ。そう懸念してしまったことは確か。
 破竹の勢いを持つ華流アニメを無視して、この作品を褒めているだけでは、いずれ手遅れになるのでは?

じゃあなぜ、『平家物語』は受けているのか?

 といってもさ。現に『平家物語』に無茶苦茶感動して毎週泣いている人もいるわけじゃないですか。

 どうしてそうなるか、かなり嫌味たらしく考察してみましたよ。ほんっっっとーにキッツイから、これから先は心が広い方のみお進みください。有料にはせんけど。

タイアップありきなのか?

 びわはアニメオリジナルらしい。
 びわが古川日出男氏の創作ならば、原作表記は意味があるけれども。訳の名前を入れるというのはどういうことだろう? 町田康氏の『ギケイキ』のようであれば、理解できなくもないのだけれども。
 ちょっと古い話ですが、日本ではかつて吉川英治『三国志』と『三国志演義』の区別がついていなかった。劉備が母親にお茶を買うとか。曹操が真っ赤コーディネートのイケメンだとか。貂蟬が自害するとか。そういう要素は吉川英治の創作だったのだけれども、『演義』にあると思うからそういう表記なしに流用する。そんなことがありました。

 古川日出男氏の訳を読んでいないため、確定はできないとはいえ、どうにも引っかかる。と思っていたら、納得できるニュースがありました。

「平家物語」のその後、知られざるもう一つの「平家物語」がここに―― 湯浅政明監督が贈るミュージカル映画「犬王」 https://animeanime.jp/article/2022/03/24/68343.html

 このアニメ映画の連動企画であったのかな。そう思ってしまうのです。

ターゲットオーディエンスの、懐古を刺激する戦術

 前段で、どうにもこのアニメは2000年代のようだと書きました。私には正直古臭くて受け付けず、これなら華流アニメでいいと思ってしまった要因なのですが、全員がそうではないでしょうね。
 ターゲットオーディエンス――主要顧客層を推定すれば、むしろ2000年代のような演出こそが肝心です。私なりに考えてみました。

・年代は30代から50代、メインは40代
・“日常系”が好きで、戦闘ものは実はさほどでも
・SNSではTwitterを最も活用している
・ある程度うっすらと『平家物語』を知ってはいる
・かといって、歴史や文学にのめり込んでいるほどでもない
・ブランドやノスタルジーに弱い。スタッフと声優を見るだけで「神!」と言うタイプ。要は流されやすい善良な方々です

 このアニメは、まちがっても往年の世界名作劇場や、『人形歴史スペクタクル 平家物語』のフォロワーではないのです。そうであれば、これを入り口として古典に誘導したいのであれば、もっと丁寧に作っていると思えます。
 オッドアイの美少女であの声優がナビゲート役ですからね。もうこのへんは丸わかりではないですか。

 子どもや若者向けではないのです。それは、こういう媒体に、こんな文体で絶賛記事が出るところからも推察できます。

アニメ『平家物語』は「宝」と呼びたいほどの“大傑作”、なぜこれほど胸に迫るのか?  https://gendai.ismedia.jp/articles/-/92282

 2020年代というのは、ビジネスマンが、オッドアイ美少女ナビゲーターがつく古典題材アニメを「教養」とみなす時代だということでしょう。

ファンダムのノスタルジーを刺激する戦術

 親や祖父母世代が、懐メロを聴いているところをみたり。あるいは司馬遼太郎を史実と信じたおじさんが歴史研究者に食ってかかったり。そういう光景を批判的にみてはいませんでしたか?

 ああはなりたくないもんだな……そう思っていても、加齢とともに人間そうなるもの。
 かつては演歌や司馬遼太郎であったノスタルジー発生装置が、ガンダム、少年ジャンプ、銀英伝、ファミコン、アニメ、エロゲーになった。2020年代はそういう時代です。
 だからオリンピックでドラクエのテーマが高々と鳴り響くワケ。その年代がマスコミなり文化の中枢にいたらそうなりますよね。
 でも、自分らが永遠の若者だと思っていると、そこに気づけないのかもしれない。
 そしてオリンピックのドラクエに海外選手はじめ、外野がシラけていたことを思い出してください。クールジャパンなんてとっくの昔に終わりました。世界は今、韓流に夢中です。

 そういう厳しい現実を忘れさせる装置として、古臭い演出のアニメがあって。その世界に疑念を抱かせないために、絶賛記事が出ているのかと思うと……。
 こういうノスタルジー頼りは焼畑農業です。先がない。日本のアニメも、平家と同じで壇ノ浦に沈んでしまうんじゃないか。そんな焦燥感が募る作品でした。鑑賞していて泣きたくなったのは平家が滅びるからではなく、日本のアニメそのものが滅びる予感がしたから。これまたインボイス制度が通ったら、滅びに拍車をかけそうで。

 色々と暗い気持ちになりますし。そういう器用な記事が書けないから、自分は永遠に三流ライターなのかと悩む次第ではあるのでした。

 

 


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