「創作落語のポストモダニズム序説、或いはレディ・メイドのすゝめ」

[創作落語集「盗用三部作」の、序文として]

ここに木塊があります(紫の、絹の座布団の上です)。木は、幾多の時代を経て、芳香を放っています。これを、大きな「落語」とさせてください。時代が与えた伝統と洗練という芳香によって、この木は、ここにそのまま置いてあっても、ある程度の作品にはなります。

しかし、そのことにかこつけて、「この木は元々、そのまま置いとくものだ」と思うのは、学生ないし周辺のアマチュア落語界における認識の誤謬だと思っています。古典落語を主とした、既成の落語作品を手掛ける際に発揮しうるクリエイティビティへの、不当に低い見積もりという形で、それは表出します。

「夢十夜」に、運慶だか快慶だかが、仏像を彫るのを見物するエピソードがあります。誰かが、何故ああも見事に彫れるかと聞くと、別の人が答えて曰く、彼は木材を見て既に、その中に仏を見出していて、あとはそれを掘り起こすだけなんだ、とかなんとか、そのような話だったと思います。学生でも、古典落語にとりかかる時は、やるべきことは近いのではないでしょうか。木を見詰め、銘々の「仏像」を見出し、未熟な鑿を手に、彫り込み、掘り起こすこと、何より、見詰めることと掘り起こすことの向こうに初めから「仏像」を見出す目的意識を持って臨むことが、求められていると思います。古典落語を手掛ける際のクリエイティビティは、述べたような自覚を持つことによって、明確に担保されます。こうしたクリエイティビティを、もし誰かが実感できないでいるとしたら、何か欠けているのが、古典落語のほうであることはまず有り得ません。その人の意識のうちの、欠落していると言っては言い方が酷ですが、未発達な部分が、成長する機会のあることを願うばかりです。兎も角、古典落語を手掛ける際のクリエイティビティを一つ定義するとしたら、述べてきたようなものと、この文章では致しましょう。

一方、学生ないし周辺による創作落語(落語の創作)が称するクリエイティビティには、この木を切り刻んで、積木細工(細工になっていれば良いほうですが)をし、以て「作品」だと強弁している類のものも、事実散見されます。あまりに独自性に重きを置いたところに陥穽が待ち受けていたというか、アイデンティティの捜索と、フィクションの創作が混同される(適正な距離を保てない)という、落研でなくても学生が陥りがちな問題を孕んだ現象と言えます。もう一つには、学生から範囲を広げて、(相対的に)若い人間にありがちな、不勉強による近眼も原因です。自分の周りに開けたわずかな余白に安住して、世界が既に、成し遂げられた創作の巨大な集合によって埋め尽くされ、息つくゆとりもないことが、想像の埒外にあることが多い、と、これは自戒も込めて、認めざるを得ません。

元々統一されていたものを断片化して、断片の集積を以て一つのまとまり、「作品」と称する方法は、一種のモダニズムではあります(モダニズムの作家たちは、自覚と、問題意識を持っていたわけですが)。昨年の策伝大会において提唱された「学生創作落語のモダニズム時代」という語は、魅力的な響きと、予想外の的確さを備えているようですが、その実相は、ここまで述べてきたようなものなのではないでしょうか。

この文章は創作落語集の序文なので、創作そのものを否定しているわけでは決してないのです。しかし、落語を創作する際に、皆さんが作っているのは「作品」だという意識がもう少し、共有され、発達してしかるべきなのではないかと思います。その意識は、「学生落語界隈」という木枠(あるいは保護膜)を取っ払い、数百年の歴史の中で群立する「仏像」群(三十三間堂みたいですが)と、「積木細工」を、容赦なく並列します。「仏像」を作るには木が育つ年月、彫り手が経る年月と、その年月しか与えることのできない技術が必要とされますし、古典落語の具体的な噺という「仏像」一つとってみても、その大半は複数人がかりで木を植え、育み、彫り込んで為したものです。学生が一人で「木」を育み、「仏像」を彫り上げるのは、どうしても限界があります(あくまで落語を一から作る場合で、既にある「木」をお借りして、彫り上げるのは、学生が行っても、ある程度意義があって、何より幸福な営為だと、僕は考えています)。けれど、だからといって、実際並列される「仏像」に対して「積木細工」を置いて悦に浸るという行為は、どんな修辞を以てしても、言いつくろえるものではありません。我々がもし「作品を作る」のだとしたら、より有効な、有意義な手段を講じなくてはならないし、その際に古典落語の偉大な一党の存在を念頭から追っ払ってしまうような、恣意的な操作は、すべきではないのです。

「L.H.O.O.Q」という絵画作品をご存じでしょうか。ダヴィンチの「モナリザ」のコピーに口ひげを描き入れ、タイトルを再びつけることで、デュシャン*が自分の作品として発表したものです。既存の有名な作品に、全く異なった文脈(タイトルは、「エラショーキュウ」と読め、フランス語で「彼女は熱い尻を持つ」とかいう意味になります)を衝突させることで、新たな「意味」が生まれます。盗用(アプロプリエイション)というこの手法が認められることで、デュシャンの営為は、「作品」として成り立ちます。既存のものを盗用する(この語の使用に、創作する側の、偉大な先達への挑戦の自覚が読み取られなくてはなりません)。それを彫り込んで深めてゆくというのとは似て非なるやり方は、既存の作品だけが存在する世界線上にない「見地」を生み出します。いわば創作可能性を創作してゆくというやり方で、我々は、偉大な芸術作品が地上を占領し、いきれをたてるこの世界を、まだ、もう少し、豊かにしていけるのだと言えましょう。

我々が、古典落語の奔流に飲まれながら、それでも(息継ぎ程度にでも)クリエイティビティの息吹を発さんと欲するなら、それを幻想においてではなく、現実で叶えるのは、述べてきたような盗用の手法です。「仏像」の表面に落書きをするのです。新しい文脈の風を呼び込むのです。その時やっと、我々は、初めて自分の息を吐けるでしょう。

(*マルセル・デュシャンは、文中に引いた作品より、便器をひっくり返して「泉」と名付けた作品によってご記憶の向きもあるかもしれません。実際「泉」その他の作品を勘案すると、デュシャンは、「盗用」以前に、既存の製品に、コンセプチュアルなアレンジを加えることで「作品」として成立させる「レディ・メイド」の確立者です。ですから、僕が創作落語の有効な手法として、「盗用」を勧める際に、それが「レディ・メイド」でもあることは前提となっていると、ご理解ください。そのほうが、読者理解につながるようです。友人の助言によって付されたこの註は、非常に大事なものです。この文章の副題の所以はこうしたことなのです。)

盗用は、シュミレーショニズムという芸術潮流(これだってだいぶ古いものです)の守り刀であり、シュミレーショニズムはポストモダンの箱入り息子(悪ガキ)であることに思いを馳せれば、一つのことが明らかです。「モダニズム」提唱から一年を経ずして、「ポストモダニズム」への移行が、我々に求められているのです。荷解きが済まないまま引っ越すような、多少の掻痒は否めません。しかし兎に角、この道を走るトラックに、既存の/「レディ・メイド」の荷をありったけ詰め込んで、乗り込みましょう。「盗用」の精神にそのハンドルを握らせ、楽しんでドライブをしましょう。行き着いた新しい家に、作品としての精緻な構造と、何よりその核となる伝統への(時代に最適化された形の、不敬ともいえる)尊敬の灯と、創作者の情熱が完備していることを祈りましょう。これから、ここに掲載予定の創作落語「盗用三部作(予定)」が、その家の青写真となることを願うばかりです。ところどころ、ぼやけ、計算間違いさえ見受けられる部分については、未来の叡智に、それを修正してくださることへの感謝と、お詫びを、未来完了時制でここに付し、筆を擱きたいと思います。

令和2年 6月 中西亮介

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