母校の話

最初にこのnoteの主題を書いておく。
【中学時代に保健室登校してたけど偏差値底辺私立女子校に行ったら気がラクになって人生なんとかやれるようになりました】

 なんでこういうことをするかというとnoteって文章がダラダラ長いのが多すぎるから、結論があるとよかろうと思った次第です。自分も長くなるだろうし。

 「女の子が嫌いだった」という言葉から始まるエッセイ漫画をツイッターで読んで、あんまりいい気分にならなかったのだけど、その作品への反論で「これって女子どうこうじゃなくて進学校に行ったからマトモな人が増えただけだろ」というのを散見した。
 実際、今のネットでの世論としては、「顔がいい人や頭のいい人のほうが余裕があり、性格もいい人が多い」というのがメジャーだ。昔は違った。顔のいい人は媚びてるだの、頭のいい人は知識を詰め込みすぎて社交力がないだの言われていた。後者は今もそうかもしれないけど、どちらにせよ人に深く関わらないようになるため、小中にありがちないじめは発生しにくい、というイメージがある。
 で、私はそれはよく分からない。偏差値42ぐらいの女子校に通っていたからだ。けれど思い返してみるとこれはこれでレアな経験かもしれないし、もしかすると「いじめや子供っぽい人間関係がつらいけど、頭も良くないから進学校には行けない、自分はやはり救われないのだろうか」という人に、いや私はアホ学校に行ったけど良かったですよ、というのを伝えたくなった。
 というかいじめを受けてたりクラス内の人間関係にしんどくなってる人は本気で授業ちゃんと受けられてるのかな〜いやわかんないけど。だから正直学力に自信ない人にも救いになる話があってもいいと思ったんです。

 理由とかは割愛するけど、中3になってクラスが本気で無理になり、しかし当時姉がやや荒れていたために家に居るのも嫌で、親から学校にはとにかく行ってくれ、ということになった。
 どう折り合いをつけたか思い出せないけど、とにかく登校したら保健室に行き、自習をして、クラスのHR終了後は自習の成果を担任に見せる、ということを続けていた。私は本屋でドリルを買って何ページか埋めたり、図書室に行って歴史の本を借りて教科書と合わせてノートにまとめたりしていた。今にしてみれば自由研究じみていた。ときどき担任は課題を出した。
 相談室も週に3回ぐらい行った。ここは基本的に放課後しか空いていないのだが、いわゆる授業時間に特別にやっていることがあった。中国から来たという一つ下の男の子が日本語を教わるための時間で、私も彼に日本語を教えたり、習字をやったり、逆に彼から中国語を教わったりした。言葉は一つも覚えていないが、日本語のおぼつかない彼が、数学だったら微積もこなしていたのは印象に残っている。
 こんなことを5月から12月ぐらいまで続けていた。3学期になると受験でクラスメイトが休みがちになったり、合わせて聞かなきゃいけないHRが増えたりしたので、しれーっと戻ったのだ。ちなみにそれまで給食はクラスの委員長が届けてくれて、私は個人的に給食室に戻していた。試験も別室扱いで受けたと思うが、あんまり覚えていない。
 私の通っていた市立中学では、高校はだいたい公立・私立を1校ずつ受けてどちらかを滑り止めにするというのがメジャーだった。私は授業は出ていないが学校には来ていたので、出席率はあんまり悪くなかった。調子が悪かったらすぐ休めたのもあって、サボる気にもならなかったのだ。内申は多分あんまり良くなかったと思う。
 本命の公立も、滑り止めの私立も受かった。けれど本命のほうに、私の心底から嫌いな奴が受かったと聞き、いろいろ理由をつけてそちらを捨てた。今にしてみればそいつを嫌っていた理由が思い出せないが、とにかくこいつと(あるいはただ中3のクラスメイトと)一緒の高校に行きたくないと思ったのだ。

 そしてこの滑り止めの私立が、都内で偏差値最底辺の女子校だった。
 おそらく調べれば何という高校か分かると思う。特別に隠すつもりもないが、名前を言う気もないので、以下の話には多少のフェイクを織り交ぜてあります。少なくとも私にとってはいい学校でした。

 まずこの学校、校舎がそこそこ広い。というか棟数がある。そのくせ1学年1クラスという驚異の倍率。受けた人は150%入れるのだ。これは数字を盛っているわけではなく、クラスメイトの1人が受験において数学を白紙で出したために一旦落ちたのだが、電話がかかってきて「無償でいいので再度受けてくれ」と言われ、行ってみたら第一問が二桁の足し算レベルに下げられていた、という逸話があるからだ。なおこのクラスメイトは話をあほほど盛る癖があったので、彼女の嘘という可能性は否めない。
 おそらく1学年で150人ぐらいは入れると思うのだが、入学時で30人、卒業時には20人になっていた。これはしかし、少子化の昨今、そう珍しいことでもないのかもしれない。
 だがとにかく生徒が軒並みアホなのだ。そもそも上のエピソードで分かるように、わざわざ受験をしに来て、分からないからと白紙で出すような奴が居るぐらいにアホなのだ。四則演算とアルファベットの書き方から教わるレベルのアホさだ。大人になって他の人の話を聞く度に、いかに自分がアホ学校にいたかを痛感する。
 そもそも今にしたって、まったく何も習った記憶がないのだ。高校での授業内容の記憶が99%抜けている。保健室登校の自習のほうがまだ覚えているぐらいだ。だから「こういうことがあって我々はアホだった」と書きたいのだが、それすら思い出せないレベルで授業の記憶がない。そんな私がトップレベルの秀才扱いされていた、そういう高校だった。先生は決して悪くないと思うのだが、我々は理解力とか学習意欲とかそういうものが完全に欠如していた。

 が、これもまた奇跡的な話で、ガラが悪い人が集まるかと思いきや、まったくそうではなかった。
 いわゆるヤンキーは高校に行かない。都内では通信制の高校が充実しており、仮に行くとしたらそちらになる。かつ私の通っていた学校は近隣に公立のこれまた最底辺共学校が存在し、男子にも会えるし学費だって安いし、ということで、通常の感性で頭が悪い人たちはそういうところへ行くのだ。
 規定上、中学校でのある程度の出席率を重視していたのもいい風に作用した。それと学校の設備が古めかしいのと、校則にだけは厳しかったため、古式ゆかしいのを良しとする気持ちが大なり小なりないと続かなかったのだ。

 したがってクラスメイトは、私のような中学ドロップアウト者、通信制高校に行ったがヤンキーと水が合わず辞めた一つ上の人、親戚が通っていたので学費が安くなるからと来た人、ややギャルではあるけどイキった男より女友達とキャッキャしてたい人、というようなタイプが集まっていた。
 全員に共通しているのは、「悪いことをするつもりは微塵もないが、向上心もまったくなく、ただ高卒資格が欲しい」というものだ。
 そんな人間が集まっていたので、マウントだのいじめだの同調圧力だのとは無縁の、かといって希薄な間柄でもなく、話題が合えば盛り上がり、合わなければ気にもせず、やらなければいけないときは文句言いながら分担し、ときには学校外で会い、誕生日にクラス中でサプライズを行うような、なんというかごく普通の友人関係が育まれていた。
 ダメなときはダメで仕方ないというのをみんな大体わかっているので、気遣いも雑にできるし、テキトーな合いの手も打つことができる。仲も良すぎず悪すぎず、適度な距離感で3年間を過ごすことができた。
 なお卒業後の同窓会みたいなものは1回しかない。どうなんだろう、苦手な人はやらないだろうしこれぐらいでいいんじゃないかなと思ってます。

 なんかもう表現することがなくてあれなんですが、アホ校の中でもガラが悪い人ばかりではないよっていう話です。よく言われるほどゴリラでもなく、電車男の回し読みをしたり、ドラゴンボールの「出てこいとびきりZENKAIパワー」が流行ったり、遅刻してきた子が馬券を当てたと言って浮かれていたり、教室に電子レンジが設置されたので買い弁の子が冷凍チャーハンを袋ごとチンしたり、屋上の鍵が開いてたので昼食をそこで食べたりしてました。
 あの母校が進路とか社会生活とか今の私の身になることは、少なくとも学業という点ではまったくなかったけど、あそこで3年をのびのび過ごせたのは、とても幸いなことだったと思う。辞めていく人も居た。学校来なくなったと思ったら堕胎手術を受けてたという子も居た。文化祭で学外から彼女を連れてきた人も居た。クラスメイトの中には、私ほどには学校が楽しくなかった人も居たと思う。
 あと先生がとても良い人で、良い人といっても人間ができてるとかではなくて、みんなどこかくたびれていたのが良かった。登校して挨拶したら「おはようございます!」と元気に返してきたので、「Y先生元気いいですねー」と言ったら、「カラ元気よ」と返されたのは、当時は笑いのタネだったけれど、今にしてみれば大事なことだったなとハッキリ覚えているエピソードです。カラ元気でもいいんだよなと自分をなんとか持ち上げて頑張っています。

 母校の保健室は旧校舎にあった。薄暗い廊下がひんやりしていて、室内に観葉植物がたくさんあって、外壁や窓にツタが這っていたから、過ごしやすいジャングルのようだった。木曜日は調子が悪くてよくそこで寝ていた。保健の先生は常駐してなくて職員室に戻るから、こっそり持ち込んだiPodで、当時好きだったケルト音楽を聴きながら、いろんなことを考えていた。清潔なシーツと使い古した毛布の下で、プリーツのとれたスカートをまとわりつかせながら。