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【井坂氏を辿る】第3回:家伝と家紋について

こんにちは、ごみくずです。

引き続き全国の井坂さん情報を募集しています。
特に出自や家紋の情報を教えていたけると嬉しいです。

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家伝は基本「ふんわり」した曖昧なもの

家伝や系図を調べるにあたり、行き当たる問題をいくつか。

家伝が正しいか正しくないかは、結論から言うと

「あなたの家に伝わる家伝が正しい」

なのですが、家伝とは『ご先祖様からの伝言ゲーム』であり、実際のところ証明する文書が無い限りは基本的に「ふんわり」しているため、この場で示した内容が、こちらの記事を読まれた方のご家庭に伝わる家伝と、必ずしも一致するものではありませんのでご了承いただきたい次第です。

実際に各地へ情報収集していると、各家で似たような話が伝わってはいるものの、大枠は似ていても要点が違う、ということがあります。
先日も調査していて、某市役所に入る問い合わせとしては、ネットに誰かが書いた事とその一族の伝わる話とは微妙に大きくズレた内容でした。

実際には古来からの文書が無い家が殆ど

当家もそうですが、江戸時代の初期あたりから役職がある家はまだましで、伝承された家伝はあるものの、それ以前の系図など、証憑となるものが意外に残っていない場合があります。

原因としては
・菩提寺が焼失した事で過去帳も焼失してしまった。つまり辿れない。

・江戸時代に一族が広がったあと、明治以降の経済基盤の急激な変化で本家が衰退して、本家が所蔵していた家伝が喪失した。

・空襲で燃えてしまった。または混沌とする時代の中紛失した。

・口頭で伝わる家伝が曖昧過ぎて、伝言ゲーム状態で伝承されている。

・客観的な一次資料と照合できる文書が喪失している。

・そもそも戦国期に戦に敗れ落ちてきた場合は焼け出されているので古文書は無い。

戦国期は村は戦で荒れ果て、支配者層も一定ではありませんでしたので、人員も流動的で余所から来た人の出自を証明できるもの第三者は居る訳でもないですから、本人が言った事が嘘か誠か分かりません。

敗戦から逃れた武将の一族がお寺に身を潜め、そこから土着したら周囲から「乞食だ」と言われる時代です。

文化を保護する意識が生まれたのも平和になってからで、例えば常陸国の佐竹氏が戦国時代に小田氏の領土を征服したあと、行ったことは「小田の匂いのする古い寺社仏閣を破壊すること」でした。

他にも、足利学校の書物などは、明治に移行し権力者の保護が無くなった事で歴史的文書が古本屋に投げ売りされてしまう状況でした。

時代の渾沌期とは言え明治時代でさえそうなのですから、支配の範囲が地域単位だった時代の歴史が残っているほうが奇跡的なので、致し方ないと思います。紙の貴重な時代に日記を付ける習慣がある人物も少ないでしょうし。

江戸時代以降の家系図ブームでこじつけが結構ある

家伝がどこかで失われているとはいえ、江戸初期から村役や庄屋になる家は、ある程度の出自が当時から証明されていたようです。

とはいえ、実際に家伝や出自が辿れるのは家は少なく、曖昧だったものを補強したり後付けしているようです。

また、江戸時代は血筋や出自が仕官に影響したため、後年の子孫が先祖の活躍を大きめに書いたり、宗家でないのに宗家と書いたり、家臣筋を名乗る家が家臣の証明であることをその家伝に家伝に付け加えてもらったりするケースがありました。

例えば徳川家光が大名家から根拠となる家伝を収集し編纂させた『寛永諸家系図伝』などは、幕府の命令で期間を区切られて作成したこともあり、家伝が伝わらない家でもこじつけて作るケースがあったといいます。そして幕府もその申告を概ね受け入れ、正しいとしました。

上記のように、曖昧になるべき状態の中で、公的な場以外で他人に出自を自慢したりすることなどは殆どないでしょうから、なんとなくの家伝が各家に伝わります。

その各家に伝わる伝承を広範囲のラインを並べ、整合性と時系列を整理した場合、意図せずに自分を含めた誰かが失望したり、知らず知らずに失礼にあたるケースが出てくるのではないかと懸念しております。

しかしこれは仕方がないことで、どの家も何れかの時代に家伝が失われているのが当たり前であり、あの徳川家でさえ、新田氏の分流得川氏の末裔となっていますが、当時の松平を名乗る優秀な人間が拠点を築いたことは事実でも、それ以前ははっきりとは分からず、後年の研究では実際は賀茂氏なのではないかというのがというのが有力です。

加えて、江戸時代に起こった家系図ブームも情報のブレを生みます。

戦国期に領主と関係を結び庶民と一線を画した豪農や土着した侍たちが、江戸時代に武士から分離されたことで、家格を示すことが難しくなったこと、そして仕官にあたっての自分の出自の根拠と明文化の必要性もあってか、平和になってから家系図ブームが起こったらしく、先祖の働きがよくわかっていない人でも家系図屋に頼んでそれらしく作ったケースがある、という話もネット上には出てきます。ネット情報がどれだけ正しいかは分かりませんが。

上記を裏付けるエピソードとして、こんなケースもありました。

盛本昌広さんの論文『近代における小田氏関連資料収集の背景』を読んでいると、かつて筑波を拠点とした大名家の小田氏が、小田原征伐後御家がお取り潰しとなり、結城家の客分として仕えた後の様子が記されています。

子孫は御家再興を目指して下野し、江戸で剣術道場を営んでおり、その資料として家伝をまとめていました。
その家伝の一つ『東源軍艦』などを読んでいると、小田勢がだいぶかっこよく、石高や活躍も結構盛ってないか?と思われる箇所が多々あります。
石高は籾高計算(通常使われる玄米高の2倍近くになる鹿児島藩の計算方法)なのかもしれませんが、それにしても高い気がしました。

そして、出自を証明する活動の中で過去の家臣筋の家とも交友を結びました。
その中には、当然家臣と伝わる人が訪ねたケースもありますが、筑波統治時代に関係があったかどうか疑わしい人物も登場しますので、地域の伝承に出てくる武将と名字だけ似ていたケースや、何となく先祖から聞いていた話をうまく改変して物語を作ったりすることもあったのではないでしょうか。

戦に負けて苗字を変えるのもよくある

大坂夏の陣で捕まった武将によく見かけると思いますが、命が狙われており、捕まったら首を狩られる場合は変名を良く名乗っていたようです。

例えば伊達家に引き取られた真田氏なども当初は変名していましたし、南方三十三館の仕置のような状況で、城から逃げ近くに頼る家が無い場合は、逃げた村の寺で落ち武者狩りや敵の追手に震えながら、変名して身を守ったケースもあるでしょう。

特に戦国期は各地で動乱があり、村も荒れていてたので、戦で焼け出されたものや戦に敗れて流れてきて、無住となった家にそのまま居ついたものもあるでしょうし、自分の顔を知らない地域に行けば自分の出自を変えても誰も分からなかったので、これが当たり前だった時代ならなんとなく暗黙の了解で、仲が悪くない限りはツッコミを入れなかったのではないかと思います。

仲違いした家同士で伝承が違うケースもある

現在の調査では行き当たっていないのですが、他の地域の他家の事例では、A家とB家が仲違いしていて伝わる話が違うというのがあるため、同族でも同様の話があるかもしれません。人間ですからね。特に近親者は相続でもめるため、こういうケースもあるかもしれません。

他にも、仲違いでは無いですが、実力者の分家に他家から養子が入り、家紋を変えてしまうケースがあって、本家は名乗らないのですが本家っぽく墓を作るケースもあり、こういう小さなところにも改変が潜んでいるため、大きな流れの歴史なら尚更正しくは辿れないのではないかと思います。

家伝が長く残る家は限られる

基本的に家伝は主観的なものではあるものの、当時の公式な文書に照らし合わせられれば証明が可能かと思います。

過去を明確に示す資料が残っているのは、正直京都の藤原氏の一族ぐらいでないでしょうか?
しかしその藤原氏も前身の中臣氏あたりは、鹿島の出であったり奈良の出であったり、また、鎌足の系列以外の中臣氏は藤原を名乗れず、それ以前の事はよくわかりませんし、権力者が書き換えた歴史は多くありますので、「この地域ではこういう言い伝えがあったんだな」であるとか「ご先祖様は頑張って私が生まれるまで命をつないでくれたんだなあ」という程度で見てもらえればいいのではないかと思います。

家紋は目安

家紋についても、「家紋があの家と同じなので同族」「有名武将と同じなのでウチは源氏」という解釈もネット上では散見されるのですが、家紋は地域の家単位で管理はされていても、基本的には権力者のものと同一でなければ自由に決められるため、地域を超えた血筋の証明というには心元ない証拠です。

家紋の起源は『戦場での一族の証明』だったため、同族は同じ紋を使いますが、その名残なのか、一族は『定紋』という考えで、一族を立ち上げた家と同じ家紋を使うのが基本的です。ただ、宗家・本家、自分の家や一族を束ねる宗家やその上の主君に優先されるため、上から奪われてしまったり、本家と同じ紋は使えず、別家を起こす際に変えることがあります。

例えば徳川家を見るとわかるように、同じ葵の御紋でも御三家は宗家と違う紋にしていますし、『三つ葉葵』を使っていた家が『丸に片喰』になったりするように、家から別家を立てたら、丸輪を付けたり外したりしています。

『一族』の重要性が変わったたため家紋も自由になった

前出の「家紋が〇〇だから有名武士団の子孫」であったり、「下り藤だから藤原」というのも単純には語れない、というのは、時代と共に一族単位で結束し自分の出自を証明することの重要性が薄れてきたこともあると思います。

すべての『武田氏』が源義光の子孫でなく、本当は『竹田氏』だったのを武田信玄の有名にあやかり苗字を変え『武田菱』を使ったりするケースもあるようで、その一族が自分の住む地域に影響力が無ければ家紋は勝手に使うこともできますし、当主の想いで自由に作れますし、伊達家のように一族の歴史が長く影響力が強ければ、いくつも家紋を持つ家もあります。

そのため、家紋での同族判定は、地域の範囲内でしか通用しないように思いますので、あまり執着せずに、家紋を決めたご先祖様の想いを感じ取っていただく方が前向きかと思います。

ご先祖様に感謝し恥ずかしくない生き方をする

以上のような事例が散見される背景があり、家系図や家伝については、全てが事実に近いとは言いにくく、とは言え事実で無いともいえない情報なため、ここに記された内容が、ご自身の認識や想いにそぐわない情報も出てくる可能性もあるのですが、改めて振り返っていただきたいのが、「我々が今ここで生きている」という事実と「我々が今生きているということは、ご先祖様が踏ん張って生き抜いてきた」という事実です。

そして、同じ苗字の今迄存在を知らなかった人たちが、其々の地域で懸命に生きてきた事も我々の生きる力となると思います。

地域によって色々な由来を持った井坂さんが居ること。
自分のご先祖様は色々がんばったということ。

今この時代を精一杯の生きるための一つの誓いの対象として、一時の感情に負け軽はずみな行動をしてしまいそうな時に一度立ち止まってご先祖様を思い出したり、同じ組織に潜む仲間面した理不尽な害悪からのストレスに負けずに奮い立つために、過酷な時代を知恵と工夫で生き抜いたご先祖様の頑張りをモチベーションとしていただく、その一つの情報となれば幸いです。
(ちなみに私は無宗教です(笑))

今回は余り井坂氏情報がありませんが、次回は小美玉市東部の家紋を地図に起こしてみたので、それを掲載したいと思います。

次回もご興味を持っていただけますと幸甚です。

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