月の明かりに


昨年から色々あった。
昨年というよりももう何年も前からだったのかもしれない。
自分が気付いていなかっただけで。
詳しくはこれから全ての事にケリが着いたら
ゆっくりと書き記しておこうと思う。


昨年の晩秋の事だった。私は不思議な体験をする。
やりかけた仕事を片付けるために職場へ車で出かけた。
自営業なので何時行こうと自由だが
デスクワークなのに現場へ行かないと書類が無いので仕事にならない。

沈んだ気持ちを引きずりながら車に乗る。
自宅から職場へは、郊外から一山越えなければならない。
その山と山の架け橋に差し掛かかろうとした時の事だった。
一頭の雄鹿が道路の真ん中で佇んでいた。
直線の道路なので、遠目で見ると月の明かりに照らされたその佇まいは、まるで絵画のようだった。
驚かせないようにゆっくりと停車した車のライトをじっと見つめ、何か言いたげな表情だ。
私は大きな黒い瞳に惹き込まれた。
これまで多くの野生動物を見かけたことはあったが、その大きな雄鹿は初めて間近で見る神々しい動物だった。

「このまま車で橋を乗り越え落ちて死んでしまおうか」

直前までそんなことを考えていた私は、突然現れたその姿に息を飲んだ。
10秒ほど見つめ合っていただろうか。
雄鹿は車から目を逸らしゆっくりとターンして山方面に歩き出した。

「死ぬな」

そう言われたような気がした。

とにかく片付けよう。目の前の事を片付けよう。
そして「死ぬ」のはいつでも実行できる。
周りが困ることの無いよう、迷惑をかけないよう
とりあえず今はやり遂げよう。
我にかえりアクセルを踏み、職場に着きそして仕事を終えて夜中に帰宅した。

7月14日は山羊座満月、スーパームーンが見られるらしい。
別名「バックムーン雄鹿月」雄鹿の角が生え変わる頃にちなんだ名前らしい。

田舎ではよくある光景で、鹿と遭遇するのは何ら不思議なことではない。
知人は庭に現れた鹿に車に傷を付けられたそうだ。

今になって思うと、あの時彼が現れたのは何かの暗示だったのかもしれない。
毎日に絶望し、それでも自分にしかできない事を淡々とこなすしかない冷えた心。
自分さえこの世からいなくなれば。
本当は何も変わらないのかもしれない。
なら、ただただ逃げたい。私は必要の無い人間だ。
そんな時に現れた黒い瞳に
「これから色んな事が起きこれまで以上の苦しみを味わうことになるかもしれない。
しかしそれを乗り越えた先には必ず光が見える。」
そんな事を言われたような気がして、また一日生きてみようと思った。

彼はまだ何処かで生きているのだろうか。
そして私もまだ生かされている。
今夜午前3時半過ぎあの橋のたもとに行ってみようと思う。
彼のツノは生え変わったのだろうか。
月の光に照らされて。


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