【物語二つ】薫る静か/ this Person (F∪N)
(約20000字)
【物語1】薫る静か
「体調どう? 今日の食事会、来れる?」
ベッドに横になりながら学生時代の友人である和香からの電話に出ると、彼女は酷く心配そうな声で僕に話してきた。
「和香、ごめん。ちょっとまた体の調子が悪くて」
「そっか。残念」
「本当にごめん」
「ううん。体調不良なら仕方ないよ!」
「また欠席になった」
「気にしないで。ナオも『今回は仕事で欠席する』って言ってたし、私だって食事会欠席することあるし、参加出来る人だけ参加する、でいいと思うよ」
「うん……。でも、僕は毎回体調不良で、しかも当日に欠席連絡してるし、さすがに申し訳ないっていうか……」
「まあまあ、申し訳ないって気持ちも分かるけども、体が一番大事だから。それじゃ、欠席ってみんなに伝えておくね」
「ありがとう。助かる」
「いえいえ。しっかし、私、幹事やるの久しぶりだなあ。学生のとき以来かも。ねえ、そういえばピアノって今も弾いてる?」
「え? ううん。今は全然弾いてないけど」
「全然? ふーん、そうなんだ。せっかく大きな手なのに」
「……」
「じゃあ、また行けるときにみんなでご飯行こうね。元気になるように今から願っておくから。復活したら私達に何か可愛くて美味しいもの奢って」
「可愛くて美味しいもの?」
「うん。ヤモリ型パンケーキとか。それをみんなで食べよう。あと何か歌って。それと一発芸やって」
「奢って、歌って、一発芸……」
「ちょっと! “食べる”が抜けてる! じゃ、私そろそろ家出るから、お大事に~」
「あっ、うん! どうもありがとう!」
無理矢理に笑顔を作り、僕は電話を切った。スマホ画面の向こう側からは表情なんて分からないのに。
欠席するのはこれで何度目だろう? 僕が参加メンバーに加わる食事会は前もっての予約が出来ない。今回も【体調が悪くなったら欠席するかもしれない】と事前に和香に連絡しておいた。彼女からは【そうなったらまた誘うよ! 予約無しでも入れるお店はたくさんあるんだから、そんなに気にしないで】と返事がきた。
ぼんやりと自分の両手を眺める。
「“せっかく”も何も……」
ピアノはもう何年も弾いていない。この無駄に大きな手は、広げて鍵盤何度届いたところで何一つとして掴めない。だけど、和香は仕事でもプライベートでも、和香にしか出来ない演奏を届け、誰かの心を掴んでいるのだろう。
僕は自分の顔の前まで持ってきていた両手から力を抜き、重力に任せてポスンと布団の上に両腕を落とした。半年前に引っ越してきた一階のこの部屋は空気の温度以外何も変化がない。ベッドに横たわったまま目線を動かし、今度はぼんやりと壁を眺める。
どうして今、僕はこうしているのだろうか。
僕は和香と違って本気で音楽の道に進みたかったわけじゃない。言われたとおりに教室に通って、言われたとおりに先生の先生がいる場所にも定期的に向かって、推薦状みたいなものも用意してもらって、そのあと和香のような本気の人が集まる大学に何故か運良く受かって、そこで劣等感と罪悪感に負けて落ちこぼれ、結果、それまでに与えられてきたあらゆるものを無駄にした何の才能もない人間なのだ。
結局、卒業後は音楽とは全然違う道に進んだ。
進んだ先では才能どころか体力も精神力も社会的な適正みたいなものですらも無かったと分かった。それと、お互いに忙しくなって和香やほかの友人達ともなかなか会えなくなって……
それでもまだ、みんなこうして僕を誘ってくれるのに。
「何で?」
僕は苛立って枕を壁に投げつけ――って、そんな体力も気力も持っていなかった。
体が自由にならない。別人に乗っ取られているような、最早僕の体じゃないみたいだ。手も足も、指先にちゃんと力が入らない。
――くる。
横になったままゆっくりと呼吸をした。そうやって呼吸を落ち着かせないと色々と体が厄介なことになる。
本当にコレは何なんだろう? 和香達とは違う道に進んだあと、僕の体には異常が出た。それに付随する症状なのか、それともまったく別物としてあらわれた症状なのかはハッキリしない。ただ、何にしても“怪我が治るようにして治ることはない”らしい。
字面だけは格好いいカタカナの名前の薬と、生命保険屋の無慈悲な顔と、言うこと聞かなくなった体。その上に猶予う日が雪のように音を立てずに積もっていく。本当に静かに、まるで毒が少しずつ全身に廻っていくようにして出来ることが奪われていく。
頭のなかで、ポジティブとネガティブが入り混じる。
仮に今、体に何の問題がなかったとしても、いつかは死ぬってことは変わらないんだよ。あと70年なのか50年なのか、あるいは30年なのか、1年なのかは分からない。誰だってそうだ。生きとし生けるもの寿命はあるし、老化もある。どうあがいたところで阻止出来るものではない。
だけど……
それでも、やっぱり怖いものは怖い。
このまま仕事どころか日常生活すら何も出来なくなって、ベッドからも起き上がれなくなって、そのまま逝ってしまう。時々そんな夢を見る。もしかしたらそれは夢じゃなくて、もっと歳を重ねたときの現実なのかもしれないけれど。
<あなた、歌うと声が凄く綺麗だね>
学生時代に和香から言われた言葉が、さあっと脳内を通り過ぎた。
僕は目を閉じ、体の内部が落ち着いてから、ゆっくりと体を起こしてベッドから出た。さあっと風を入れて、部屋の空気を入れ替えたい。
力が入らない足で窓辺まで歩き、カーテンを開ける。外から複数人の騒ぐ声が聞こえてきた。酔っている人達なのかもしれない。僕はスマホを触って久しぶりにラジオを流した。落ち着いた低い声が聞こえてくるスマホを窓際の棚に置き、その棚に置かれた置物の振り子を右手で触った。振り子の横には蝶の標本が置いてある。
振り子が反対側まで揺れる。すうっと目を閉じる。そこに、蝶の残像。
<あなた絶対もったいないと思う!>
<最初から何一つ間違えないようにしているの? だから許せないことばかり増えていくんじゃない?>
<苦しくなるくらいなら間違えたっていいじゃない! 死にはしないんだから、もっと思いっきりやりなよ!>
和香の言葉が次々と通り過ぎていく。目を開ける。まだ、残像が消えない。
<あなたピアノはどこか怖がっているように聞こえるけど、歌声が本当に綺麗だね。私が出会ってきたなかで一番綺麗!>
<私、あなたの歌う声が好きだよ。いつかそこに命を宿してよ>
その日、和香があまりにも大袈裟なことを言うもんだから、「そんな大層なこと出来ないよ」って言葉を返した。すると、どういうわけか、真剣な目で僕の顔を見ていた彼女は僕から目を逸らして少しだけ辛そうに笑った。
その半年後、和香は学生のうちに歳上の人と結婚した。招待された披露宴では、新郎も新婦も不自然なくらいに整えられた、とても綺麗な表情をしていた。新婦側の友人代表が「和香ちゃん、敬太さん、本当におめでとう!」と言って泣き崩れた。
あのとき、招かれた和香の友人のなかで泣かなかったのは僕だけだったかもしれない。
窓の外、騒ぎ声が止み、急に静かになった。僕は少しだけ窓を開けて外を眺めた。少しも濁りのない清らかな空気と、寂の空。
「しんどい」
視界がぼやけてくる。出来る限り足に力を入れて、窓際の棚に手を置き、体を支えた。
大したことはない。きっとニ日後くらいには回復する。もしかしたら三日後か、一ヶ月後かもしれないけど、取り敢えず時間が経てば元気にはなる。
「ああ、もう!」
ただ、確かに今はしんどい。このまま誰にも話さずに過ごせたらそれが一番いいのだろうけど、すぐに誰かと繋がれる便利なシステムがそこにあって、弱りに弱っているときは心地の良い囁き声まで聞こえてくる。
― ねえ、その指先を動かすだけで楽になれるかもしれないよ。きっと誰かが解毒してくれる。みんな優しいでしょ? ―
― その毒は、勝手には消えてくれないんだよ。指先一つで欲しい言葉がもらえるかもよ。さあ、その無駄に大きな手で便利なシステムを取って ―
「いやだ。僕は感情を指定するのもされるのも嫌いだ」
こうやって声に出して独り言を言わないとこの囁きに負けそうになる。そして多分、僕よりもそいつのほうが強くて、声に出しても負けることがある。負けたあとに自分の吐き出した言葉と実際の行動との矛盾点を歯ぎしりしながら認めても、もう時間は戻らない。僕は棚に手を置きながら蝶の標本に目をやった。当たり前だけど、“現物”は一つも動かない。今最も活発な動きを見せているのは、心地の良い囁き声だ。
もし今、僕が歌ったら、お前の“声”は消えるのか?
数秒間、標本を眺めたあと、顔を上げて窓の外を見た。通り抜けていく澄んだ空気。浮かぶ残像。風の香り。可惜夜に、はらりはらりと、蝶が舞う。気が済むまで夜風にあたったあと、出来るだけ静かに窓を閉めた。
残像は消え、僕は再度振り子を触った。ゆっくりと、歌うための呼吸をしようと口を開ける。だけど少ししか空気を吸えない。体を支えるために棚に置いていた手から力が抜けていく。同時に頭の中が何者かに侵略されていくような不快感が生じてきた。その侵略者はやがて僕から不快以外の感情をすべて奪っていくんじゃないかと思うほどに野蛮で、かつ、巧妙に設計されていて、こいつも体の調子を狂わせる。それも、“囁き声”よりも強力な力で。
僕はついに立っていられなくなり、床に膝をついた。囁きの攻撃に対しては持ちこたえられたけど、違う方面からの侵略者の攻撃で体が敗北しそうだ。
「何でだよ? いやだ……!!」
いやだ! いやだ!
不快感の次に生まれてくるのは不安、焦燥、そして嫉妬。
体はさらに弱っていく。
僕はどうしてこうなんだ。また置いていかれるじゃないか。みんな頑張っているのに。僕が今こうしているあいだにも、あの優しくてキラキラと輝いている人達は何をしているのだろう? どんなふうに時間を使っているのだろう? こうやってまた適合出来ない僕とみんなとの差が開いていくんだ。でも体が言うことを聞いてくれない――!!
<綺麗な声だね。ねえ、もう一度歌ってよ>
無理だ!
きっと、今は綺麗な声なんか出せない。指先にもまったく力が入らない。こんな体じゃ、綺麗な歌声どころか下手なピアノも弾けやしない。だけど、それは確かにそうなんだけど……それでも何か歌わないと。
どこかを麻痺させてでも何かはしないと、このまま何もしなかったらまた差が開いていくから――
<本当に歌うのが好きなんだね。私には、そう伝わってくるの>
頭のなかで和香の言葉が繰り返される。どうしてだろう? 今夜は彼女の言葉がやたらと頭に浮かんでくる。そして、その言葉達が僕の体を軽くしていく。そんな気さえしてきた。僕が脳内で生み出している野蛮な侵略者の周りに、ひらひらひらと、蝶が舞う。
蝶が舞う。
残像のはずなのに、まるで生きているみたいに、僕の脳内を羽ばたく。独裁者に変わろうとしていた侵略者の姿がだんだん薄くなっていく。
「そう、伝わってくる……?」
和香の言葉を声に出した。
胸に右手を置く。じんわりと胸から手に体温が伝わってきた。その温かさを感じながら、浅く早くなっている呼吸を落ち着かせることに集中する。ゆっくりと体に入り込んでくる空気が、血液の奥の奥にまで沁み込んでいくような感じ。頭の中には懐かしい情景が浮かんできた。
思い出した。
僕はその和香の言葉に対して、何も深く考えず、誰の反応も気にせずに、「そうだよ。僕は歌うのが好きなんだ」と答えたんだ。
そのときの僕は、心から笑っていた。
思い出したよ。
本当はただ純粋に歌っていたかった。たとえ、それで何も得られなくても。
間違えるのは何もしていないよりも恥ずかしいと、結果を出せずに笑われるような人間は何をしたところですべて無駄に終わる、だから黙って用意したこの道に行けばいいのだと、そうやって感情を投げられたとしても、歌う時間だけは大切にしておきたかった。
それなのに、投げられた他人の感情と正面から向き合おうという、あるいは無視すればよいという選択肢は愚かな僕にはなかった。そのまま自分の本音を飲み込んだほうが、“傷つく恐怖がない”と思ったから。
そんな理由で“言われたとおり”を繰り返して、僕は自分にとっての大事な感情を蓋つきのゴミ箱に捨てたのだ。「僕が悪いんじゃない、だってそう言われたから」なんて言いながら。
キュッと、力の入らない両手を握った。
「このまま、思い出せよ」
顔を上げて、空を見ろ。そして余計なことは何も考えずに、ただ心から歌うんだ。笑われたくないとか、責められたくないなんて、もう二度と言わない。それ言って蓋をしてきたから逃げた安全地帯で無駄に歳だけ重ねて今じゃ体がこうなってんだ。
好きに歌えばいい。脳を支配しようとする忌々しい侵略者の踏み荒らす音、それと「指先一つで……」なんて囁く、強くて心地の良い声は、きっと歌っていれば聞こえてこない。
僕は立ち上がれないままで顔だけを上げて窓を睨みつけた。そして、僕が自分自身で作った敵に話しかける。
なあ、素直に平伏すのが美しいのか? それとも平伏すくらいならいっそ散ってしまうのが美しいのか? 僕は昔も今も弱いけど、弱さゆえの美学になりそうな潔さなど一つも持っていない。このまま黙って“美しい負け戦”などするものか。
「……!」
全身に毒が廻る感覚。気持ち悪い。体内に潜む敵もタダでは身を引いてくれない。本当に気持ちが悪い。
後遺症、併発、慢性の……ハッキリとは分からないけど、こういうことはよくある話なんだろうと思う。体と心のどこもやられていない人間なんか、そうそういるとは思えない。
あの人もこの人も、表での顔ってのは、常に綺麗に整えていないといけないから。自分が主役になれる式典のときでさえも。
見えないだけだ。みんな表に出さないだけ。おそらく僕に感情を投げてきた人も、あと学生時代の――
「ああ、そっか……」
もしかしたら、あのキラキラと輝く優しい友人達も表に出していないだけで、どこかはやられているのかもしれない。
『見えないので分かり辛いんですけど、今日は新月らしくてですね、僕知らなかったんですけど、どうも新月の日ってのは願い事をすると叶いやすいらしいんですよ。それで、さっきスタッフさんが調べてくれたんですけど、あと五時間くらいは願い事のベストタイムみたいです。皆さんも是非新月にお願い事をしてみてはいかがでしょうか。それでは来週またお会いしましょう。おやすみなさい』
スマホから、ラジオパーソナリティーの落ち着いた声、そのあとにうるさい広告音声が流れ出した。僕は床に膝をついたまま腕を伸ばして棚の上のスマホを手に取り、電源ごと落とした。
新月に願い事? じゃあ、こんな体を、この体を元に戻して――
「いや、いらない」
何も映らなくなったスマホを床に置く。指先一つで役に立たなくなった機械の下から小さく「トン」と音がした。
スマホを眺める。数秒の静寂。今まで関わってきた人達の顔が浮かんできた。
感情が、上書きされていく。
こんな体でも昔に戻ってほしいなんて思わない。思い描いていた未来の選択肢を失った分だけ飾らなくてもよくなったんだ。もうすぐ死ぬとかそういうものでもないんだし、症状って名前じゃどこか暗いから新しい世界を知れる“可能性”と名付けよう。
「可能性」
頭に浮かんだ言葉を声に出す。僕は再び腕を上に伸ばし、棚の上の振り子を揺らした。相変わらず体の調子は良くない。それどころか悪化する一方だ。
最近になって、以前は何の問題もなかった高い場所にも行けなくなった。僕は高いところから小型模型のようになった建物を見るのが好きだったのに。いずれ、また一つ何かが出来なくなる日が来るのだろう。呼吸が上手く出来なくなる、その引き金が増えていって、さらには新しい症状も追加されていくのだろう。
そうやって適合出来る場所がだんだん減っていって――
「あ。そうだ……」
そうだ、あとこれも思い出した。「また一つ出来ていたことが出来なくなった」、僕はこれと同じことを一年前も言っていた。
だとすれば――
僕は再度胸に右手を置き、心臓の音を手に伝えながら息をした。
だとすればきっと、一年後も同じことを言って嘆くのだろう。そして、そのあとに続く台詞も同じようにセットで言って笑うのだろう。「あれ? だけど一年前はこんな世界知らなかったじゃないか。一つ出来なくなっていなかったら一生知らなかったんじゃないか?」って。これを毎年繰り返していくのだろう。
振り子が真ん中で止まった。
僕は胸から手を離した。心臓の音は分からなくなった。そのタイミングでネガティブとポジティブが争い始めた。
(ただし、見方を変えれば知りたくなかった世界を知ってしまうっていう一面もあるよね)
(いや、それでもそこから学べることだってあるはず)
(いやいや、学びたい、学ぼうだなんて前向きな感情は、心と生活にある程度の余裕があるときじゃないと出てこないだろう? 現状を維持できる保証なんてどこにもないのに、この先“知れて良かった”とポジティブに思える未来だけでは――)
(うるさい! 僕は知りたいんだ! 死ぬまでに何を捨てればいいかを、社会通念上の何とかってやつではなく、僕自身の経験によって知りたいんだよ!)
(……)
(そしてこれも本音だ。僕は君のすべてを否定したいわけじゃない)
(……。分かった。身を引くよ。ただし、今日のところは、だけどね)
争いが終わり、やっと呼吸が落ち着いた。時間をかけて空気を吸い、そして吐いた。続けて深呼吸をする。さっき感じた風の心地良さを思い出した。
今日も体は負けなかった。目を閉じて、もうどこにも焦りがないことを確認する。
<いつかそこに命を宿してよ>
今日は和香が何か不思議な力を使っているのかってくらい、彼女の言葉が何度も脳内に現れる。それと同時に彼女のピアノの音も蘇ってくる。あの深くて、美しい音。
僕は和香のピアノの音が好きだ。彼女の音は生きている。僕の手では出せない、あの手でしか出せない音、僕に自然と涙を流させる血が通った音。
僕は自分の両手の手のひらを広げ、じっと見た。うっすらと静脈が見える。よく見ると、それは指先にまで伸びている。
ああ、そうか。美しい音を聴いて心が動かされるのは、今日も僕の体にちゃんと血が通っていてくれるからだ。弾けなくなった無駄に大きな手のすべての指先にまで、休むことなく、ずっと。
心臓がドクンと動いて、そこから温かいものが広がった。
“こんな体”なんかじゃない。武器は見えない場所にあった。これ以上温かい血を流さないための武器だ。“こんな体”なんか、どこにも存在していなかった。
左腕にそっと右手で触れた。ズキっと鋭い痛みが走る。蓋をするたびに生まれてきたその痛みが消えるまでには、もう少し時間がかかるだろう。僕は床に膝をついたまま、窓の外の空を眺めた。どうしても立ちたい。自分の足で立って、見えない月が輝く空を見たい。
「一人で生きてこられたわけじゃないのに、たくさんもらってきたはずなのに、僕だけが置いていかれたことなんて無いだろう?」
大きくて長い独り言。これは間違いなく、一年前の僕にはなかった新しい感情だ。
立って歌いたい。ここは舞台じゃないし、ましてやオーディエンスは一人もいない。それに何の楽器もなくて、たぶん今は長時間立ち続ける力もないんだけど、
「それでいいから」
もう焦んなよ。光があたっているところも、あたっていないところも、“全面”じゃないんだよ。
足に力を込め、立ち上がった。
窓の前で顔を上げる。揺れない低い地から見上げた先に、寂然な天。
「高いところがダメになっていなかったら、こんな世界知らなかったんじゃないか?」
一度目を閉じ、ゆっくりと呼吸をして目を開けた。そしてすうっと空気を吸い込み、それに声を乗せて体から出し始めた。
何年ぶりだろうか。頭の上から空に昇らせていくようなイメージで声を出して、歌う。自分以外を楽しませるのってどうすればいいか分からないから、絶対に和香のためとか、ほかの誰かのために、なんて言葉は出さないんだけど、それと歌ったあとに格好良くぶっ倒れたりもしないんだけど、立っているから。ちゃんと最後まで。歌い切るまで。
高音、脳天から突き抜ける。
一番が終わった。まだ歌うよ。この歌は三番まである。
風が吹き抜けて、目が醒める。少しの眩暈。
大丈夫。音を外したって絶対に最後まで全部歌い切るから。まだ「最後まで」なんて執着があるんだけど、それが今の嘘のない姿なんだ。そして、“この執着”は捨てなきゃならない種類のものなのかはまだ分からない。だから考える。その考える姿を何か形にして残すのもいいかもしれない。
歌ったあとは便箋に歌のような言葉を書いて枕元にしまっている、という言葉を思い出した。誰が言っていたかまでは思い出せない。このあと歌い終わったら、僕なら便箋にこう書くだろう。
【突然現れた懐かしい声は僕にゆっくりと自省をさせてくれた。そして、どれだけ自省をしたって嫌いなやつは嫌いなままだった。憎しみは今日ほんの少しだけ薄くなったけど、まだ直接関わりたくはない。一年後は分からない。本当は嫌いでいたくない】
自然な呼吸のあと、軽く振り子を触り、僕は二番を歌い始めた。
空気を含んだ声が体から抜けていって、まるで溶けるようにして夜の空に広がっていく。月は見えない。今夜は新しい日らしいから。
振り子が揺れる。
《どうか、顔をくしゃくしゃにして三人で笑っていて。僕は今、とても楽しい》
一瞬だけ和香の顔が浮かんで、ぱっと消えた。きっとその顔も、蝶の残像も、もう出てくることはないだろう。
吸った空気を色のない声に変える。ゆっくりと、静の空に手を伸ばして。
*****
【物語2】this Person (F∪N)
※一部性的表現があります。
ー 開演 ー
久しぶりにスズメちゃんの声を聞いた朝、僕は人ん家のベッドで目を覚ました。隣には氏名、年齢、職業不詳の女性が一名。
いや、不詳ってのは失礼だな。僕が聞いていなくて、彼女からも言われていないだけ。
僕は彼女を起こさないようにそっとベッドから出て、昨日の夜からローテーブルの上に置かせてもらっている自分のノートパソコンを立ち上げた。そして、パソコンが目を覚ましているあいだに、トイレと洗面台を借りた。
顔を洗ってまた寝室に戻る。
カタカタカタカタ……。
床に直接座り、パソコンを触り始める。画面上にいくつもの文字が並んでいる。まだ頭がボーっとしていて、目に入ったそれらを脳内で上手く処理できない。そのうちゲシュタルト崩壊が起こるかもしれない。
「いや、まず名前が全然“平仮名命”じゃないし!」
ノートパソコンに向かって大きな独り言を出してしまったあと、ハッとしてまだベッドで眠っている女性のほうを見た。良かった。向こう側を向いているけど起こしてはいないみたいだ。
僕はそっと立ち上がり、寝室内に置かれている小さな冷蔵庫に入れさせてもらっていた袋を取り出した。袋の中身は昨日量り売りで適当に買ってきたチョコレートで、チョウチョ形、ネコ形、原始人形、と色んな形が混ざっている。僕はその中から水星、あるいは金星形にも見えるチョコレートを一つ、手に取った。
「いただきまーす」
パソコンの前に座ってそれを口に入れる。どんな味かまでは確認していない。
なるべくすぐには飲み込まないようにして、ゆっくりと味わう。
うーむ。美味しいけど僕には少し甘いかも。何だろう、あとからドロッとした――
「おはよ。人ん家にいるときにまで仕事するとか、大変だね」
僕がチョコレートを食べていると、いつの間にか目を覚ましていた女性が体を起こし、ベッドの上から声を掛けてきた。お互いに名前を知らない。二人とも現在パートナーがいなくてフリーだという情報交換は済ませているけど、連絡先の交換はしていない。どうしてこの人の部屋に泊まることになったのかとか、そういうのは最早覚えていても、いなくてもどっちでもいい。多分、お互いに。
「おはよ。仕事じゃないよ。ちょっと音消してライブ配信見てただけ」
僕は女性にそう言葉を返しながら、チョコレートを一個渡そうとした。女性はそれを受け取ることはせず、ベッドから出て、床に座る僕の顔を撫でてきた。
「仕事じゃない……? ふーん。なら、もう一回しようか?」
女性は少しだけ吐息を混ぜた小声になった。僕はめげずに、女性にチョコレートを渡そうと彼女の左手の中に一個だけ握らせた。多分、泊めてもらった御礼とか、そういう気持ちがどこかにあるのかもしれない。
「何も聞かずに、ただ『しようよ』っていうの、僕は好きだよ」
「だってあなたの仕事とか、配信の参加者なのか傍観者なのかとか、そういうの色々聞いたところできっと私には関係無いし。それに、それほど興味もないから」
女性は小声からめちゃくちゃ冷静な声に変わった。なんと顔つきまでクールになっている。あーあ、きっと僕は何か失敗したんだろう。
「あははは! 興味無い!!」
「うん。興味無い」
「良かった。僕は関係を築けていないうちからズカズカと聞かれるのは好きじゃないんだ」
「そう。えっと、ごめんなさい。『築けていないうち』っていうよりも、今後私達が長期的な関係を築く可能性はゼロだと思う。ねえ、早くしようよ」
「分かった」
女性は、僕が彼女の左手に握らせたチョコレートをローテーブルに置き、ボスっと僕をベッドに投げ飛ばしてキスをしてきた。昨晩と同じ唾液の音と、昨晩と同じ甘くもないし、ほろ苦くもない、無着色で無香料。
このあとも昨晩と同じ。二人して役者になる。僕は出来る限り相手から求められた役を演じ、逆に相手に対しては三次元でも二次元でもなく、“どこにも存在していない誰か”の役を求める。
とにかく実在していないことが重要。そして、何となくだけど、この重要事項に関しては相手も共通しているのだろうと思う。
唇が離れて、一瞬口元がひんやりした。もう少しだけ昨日と違うことを喋りたい。
「またしても安心した。僕は粘着性のある甘ったるい関係は――」
「はいはい、好きじゃないんでしょ?」
「好きかどうかは分からないけど、向いてはいない」
「あっそう。私はあなたの“話し出したら長そうなところ”に粘着性を感じるけどね」
「あははははっ。でも、何だかんだで話聞いてくれてる。ありがとう」
「そうね。まあ、もう会えないだろうから」
「うーわ、カッコイイ言葉」
いったん女性との会話を終え、ベッドに仰向けになった状態で天井を見た。よく見ると顔みたいなシミがある。
その顔から目を逸らしたあと、僕は昨日の夜と同じように実在していない誰かの役を演じることにし、相手の首から上も存在しないバーチャルヒューマンにすり替えた。淡いブラウンのショートヘアーで……名前は、『カオル』にしよう。カオルは僕の顔を何にすり替えているのだろう?
――何でもいいみたい。
首から上がすり替えられた者同士の体温が重なる。
「これ好き?」
「ん……」
時々、気持ちいいのかそうでないのか分からなくなる瞬間がある。さらに聞こえてくる声が、現実なのかバーチャルなのか分からない瞬間もある。
色んな瞬間がある。
ベッドの横には大きな全身鏡が置いてあって、そこに二名の姿が映っている。“知らない人”と“知らない人”がベッドの上で戯れて遊んでいる。そういうフィクション。
生温い吐息と、どっかのプロ演者みたいな切ない声、そして“実在していない誰か”をはめ込んでいるボディはそろそろ達するのだろう。
気持ちよくて息が苦しい。もう息吸うの忘れそう。
「ねえ」
「なに?」
「ごめん、気持ちいい」
この際、どっちの役者がどの言葉になっても大して変わらない。きっと二人ともよく似ているから。
「気持ちいいっ……」
頭ん中散らばった。最近カラーを変えたばかりの僕の髪の毛が一本、はらりと布団の上に落ちた。それでは、ここら辺で決め台詞。
<ごめんね。全部、さようなら>
カチャン、と大嫌いな金属音。演劇用の手錠が外れて幕が下りる。これからしばらく再起不能。
― 第一部終幕 -
「ちょっと、起きて! ねえ! そろそろ戻ってきてよ!」
「んん……。ん!?」
スズメちゃんのさえずり……じゃなくて、酷く焦った様子のカオルの大声で僕は目を覚ました。
「あ! 良かった、起きた! ねえ、私これから仕事に行かないといけないの」
「仕事?」
「うん」
「そっか、そしたら僕出て行かなきゃね。ごめん、ごめん」
「ううん。こっちこそごめんね。もっと早い時間から真剣に起こせばよかった。私、あと三十分くらいで家出たくって」
「うん、分かった」
視界がハッキリとしてきた。急激に体温が冷めていくような、一気に現実に引き戻されたこの感じ。ああ、こりゃあ確実にノンフィクションだわ。僕はカオルの顔を見て一度ニコっと微笑み、床の上に立った。
「洗面台借りるね」
「うん。どうぞ」
僕は洗面室に向かい、冷たい水で手と顔を洗った。そして寝室に戻り、人ん家のテーブルに置きっぱなしだったノートパソコンを自分のデイパックの中に片付けた。
意識が“日常”に帰ってきたら、次は内面の化粧をしなければならない。その化粧は今のところ手ぶら無料で出来るけど、外の世界に向かうためには相当化けさせる必要がある。
「私、今からお化粧するからテーブル使ってもいい?」
「うん。どうぞ」
着替えを済ませたカオルがローテーブルの前に座った。ふわっと風呂上がりの香りがした。今、彼女は外見の化粧を始めたけど、もしかしたら内面も同時進行で化けさせていくのかもしれない。カオルが慣れた手つきでアイラインを引いていく。
「そのアイライナー使いやすい? 僕が使っているやつ、すぐ滲むんだよね」
「使いやすいよ。私、これしか使わない」
「ふーん」
「ねえ、今度またどこかで会えてもきっと忘れているだろうけど、楽しい時間をどうもありがとう」
「こちらこそ、どうもありがとう」
「短いあいだだったけど元気出た。私また頑張れるよ」
「ええ? 僕は元気づけるようなこと何もしてないと思うけど」
「いいの。そっちのほうが好きなの。依存しないでいられるから」
「そっか、僕も依存は……」
「ん? 何?」
「いや、ごめん。そうなんだね。僕は、馴れ合いにしかならない関係が嫌いだ」
「へえ、そう」
「うん」
そこで一度会話が止まった。カオルがテーブルにアイライナーを置き、代わりに口紅を持った。そして、鏡に彼女の顔を映した状態で軽く「ふふっ」と笑った。
「ねえ、きっと私達はお互いに似ているけど、それだけね」
「それだけ?」
「“似てる”と“同じ”は全然違うから」
「……ああ、うん、そうだよね」
「ふふっ。私、本当に楽しかった。どうもありがとう」
カオルは化粧の途中でいったん手を止め、僕のほうを向いて笑ってくれたけど、僕はその笑顔を見ているふりをしながらも、なるべく目を合わせないようにして微笑んだ。彼女のその表情は、僕がいつもオモテ向きに出している表情とよく似た種類のもののように見えた。彼女の内面の化粧はもう終わったのかもしれない。
僕は数種類のチョコレートが入った袋をデイパックに入れ、再度御礼を言って彼女の部屋を出た。
家に帰る途中、コンビニでおにぎりを二個買い、コンビニ近くの公園のベンチに座って遅い朝食としてそれを食べ始めた。スマホを見ると、午前十一時をまわっていた。もう昼食なんじゃないか、これ……
「うえぇああぁっ!」
僕はびっくりして持っていたおにぎりを落としそうになった。なんと、なんと、僕の膝のあいだに、可愛い猫ちゃんがいるではないか!!
おいおいおい、なんていう幸運なんだ!
しかも、不思議と僕が驚いた声を出しても逃げていかない。天使か? 君は天使なのか?
「の、野良さんですかね……? この度は、わたくしめの膝のあいだを選んでいただき誠に光栄でございます」
天使が今、僕が手に持っているおにぎりをじっと見ている。離れていかない。嘘だ。ええ? こんなことってある? どうして? おにぎりか? おにぎり効果なのか? 信じられない。
だけど――
「ごめん。ご飯はあるっちゃあるけど渡せないんだ。ここに毎日いるわけじゃないから」
僕は手に持っていたおにぎりの残りを急いで自分の口の中に押し込み、食べ、ベンチから立ち上がった。おにぎりの包装ビニールを持って帰るためにミニ風呂敷を取り出そうと右手でデイパックの口を開くと、チョコレートが目に入った。ここにも食べ物がある。でも渡せない。
もし明日この猫が餓死したとしたら、僕は今の自分の判断について、どう思うのだろう。
空いている左手で猫に触れようとして何となく躊躇し、ギュッと握ってまた開いた。いつもと変わらない指が五本あるだけ。ただの何もない左手。
もう一度、猫の目を見ようとした。相手は僕と目が合う前に僕の前から去って行った。
「ごめんね。だけど、この判断で精一杯だ」
気付くと、猫の姿はもうどこにもなかった。僕は立ち上がってデイパックを背負った。喉の奥にまだ何かつっかえている感じがある。自分の吐き出した独り言でさえ上手く飲み込めない。
この判断で精一杯だって? ほんの少ししか関わっていないのに、どうして不甲斐なく感じているのだろう? もしかしたらあの子のほうが僕よりも逞しいかもしれないのに。
僕のほうが弱いかもしれないのに。
いつもよりも早足で家に向かう。
もう帰ろう。今、どれだけ僕一人であの子について非情になるか過信になるか、それともそれ以外になるのかを考えていたって答えは出やしないんだ。
― 第二部終幕 -
家に帰ると正午になる直前で、僕はデイパックをソファーに置き、ひとまずシャワーを浴びることにした。本心ではこのままベッドにダイブしたいところだけど、十三時からオンラインで仕事の打ち合わせがあるから、上半身だけでもそれなりに小綺麗にしておく必要がある。
シャワーを浴びて、髪を乾かしたあと、水を飲み、ダイニングテーブルの上にノートパソコンを置いた。カタカタカタ……と指先から音を立てて、本日二度目の起動。ボディが仕事用に化けた僕に譲渡される。
十三時まであと十分。オンラインミーティング用のアプリを開き、カメラ機能をオンにする。
相手の顔が映った瞬間、僕は思いっきり作られた少し高めの声で「こんにちは~。どうもお世話になります~」とニコっと笑いながら言った。画面に映っている相手も同じようにニコっと笑った。
「お世話になります。何か顔見るのって久しぶりじゃないですか?」
「確かに。そうですよね! 僕ら、ここのところ文章でのやり取りばっかりだったから。いや~、お久しぶりですね、河野さんの顔!」
「ははっ。『顔』って!! そうだ、この前の件、予定よりも早く仕上げていただいて助かりました」
「いえいえ、こちらこそ。いつも助かっています。是非またお仕事ください。お願いします」
「ええっ? ちょっと、またそんなこと言って、逆にほかの企業さんに乗り換えないでくださいね~」
「あははははっ! いやいや、河野さん、本当にお願いしますよ。本当に」
「はい! こちらこそ、どうぞお願いしますね!」
ここに在るのは、生き延びるために設計した声、話し方、そして表情。これもフィクションのなかの一つ。だけど、ボディまではフィクションに出来ない。体が重い。体がっていうか、頭の中も、何もかもが重たい。多分ここんとこ食生活が乱れていたからだろうな。
あとは、武装もしているから。重たい武装。
外の世界は常に鎖帷子が必要だ。生き延びるためにする武装で、生きるために必要な空気が吸えなくなる。息苦しくなる。これを脱いだら体に新鮮な空気がすうっと入って気持ちよさそうなのに。
いや、違うか。
息吸うの忘れるほどに苦しいのが気持ちいいんだっけ? 苦しいのがいいんだっけ? ねえ、画面に映る河野さん、あなたもそうなんですか? 僕と同じなんですか?
仕事中なのに、僕はあなたの前では時々ノンフィクションが混ざる。それどころか、この人は自分と同質なんじゃないかとさえ思いたくなってしまう。本当はどんな人かなんて分からないけど、僕にとっては“いい人”だから。ただ、それだけの理由で。
「河野さんって本当にいい人ですよね」
「そんなことないですよ。いい人なんて、妻にも言われたことありません」
「そうなんですか? いや、いい人ですよ。僕にお仕事くれる人のなかで断トツにいい人です」
「ええ?」
「河野さんは僕を対等な仕事相手として見てくれるっていうか。僕、実績もそこまであるわけじゃないしフリーとしてもまだ日が浅いから、正直最初は『どんなに厳しいことを言われてもそれをバネにしないと』ってちょっと身構えていたんです」
「あー、まあ、私など職場でも家庭でも人に何か物言える立場ではないので……。同期のなかでは出世も遅いし、一番仕事出来ないんですよ。ははは」
「ええ? 仕事出来ないって、それ絶対嘘でしょ~。河野さん、僕が今まで出会ってきた仕事関係の人で一番信頼出来る人ですもん」
僕がそう言うと、画面の向こうで河野さんが少し微笑んでマグカップを持ち、何かを一口飲んだ。仕事相手との雑談。それは、取り敢えずあと少しは生き延びられるという安心感を僕にくれる。
「……では、本日もどうもありがとうございました。また連絡させていただきますね。あの、次はどこかで直接お会いしてお話しませんか?」
「分かりました! 河野さん、今後もよろしくお願いします!」
「こちらこそ。本当に……本当に、今日話せてよかったです」
「え?」
「これ以上、“自分はこんな人間ではないはず”って思いたくなかったんで」
「河野さん、それ、どういうことですか?」
「あっ! い、いいえ! ごめんなさい、忘れてください。それでは――」
「はい。それではまた」
オンラインミーティング用のアプリを閉じ、僕は一度トイレに立った。別に尿意を催したわけじゃない。ただ立ち上がって少し動きたかっただけ。
“自分はこんな人間ではないはず”。
まったく同じではないでしょうけど、僕もそういう感情知ってますよ。ねえ河野さん、“こんな人間”って何なんでしょうね。
どうして自分が“こんな人間”だと、許せなくなるんでしょうね。僕の場合、上辺では必死で“いい人”を装っても、どこかで自分に対しての過信と他人に対しての恐怖があるんだと思います。自分は弱いって敢えて言い聞かせないと暴走しそうになるくらいの過剰な“過信”と“恐怖”が。河野さんはどうですか?
“こいつら”の過剰分だけを捨てたい。河野さんならこの気持ち分かりますよね?
「ああ、ほら、またこうやって河野さんを自分と同質にしたくなってる。何でだよ、もう」
仕事上の馴れ合いは特に嫌いなのに。嫌になる。「あなたならこの気持ち分かりますよね?」なんて誰に対しても言いたくないのに。あの人とは適切な距離を保っていたいのに。近すぎる距離は、いずれ減点方式を生むから。
心底嫌気がさして大きく息を吐いたあとにトイレから戻り、僕はまた水を一杯飲んだ。そして乱暴にならないよう意識してグラスを静かにテーブルに置き、スマホを手に取った。
次にやり取りをする仕事相手のSNSを確認する。河野さんとは正反対のイメージの人。
【居酒屋で取引先の人と飲んでます☆ 揚げ出し豆腐が絶品! 豆腐好きの娘にも食べさせてあげたい♪】
「へえ~、揚げ出し豆腐かぁ。今度話すことあったらどこかで話題に出してみようかな」
スマホ画面の上で指を滑らせていくと、テーブルを囲む複数の人物、料理、そして日本酒とワイン、ウイスキーの写真が出てきた。SNS確認が終わったら再度ノートパソコンを触り、その人に送る文章の入力を始めた。
カタカタカタカタ……
【外志様 いつもお世話になっております。】
カチカチッ。
カタカタカタカタ、カチカチッ。
【今後とも宜しくお願い致します。】
締めの文章投下。一昨日電話で「あなたくらいの人いくらでもいるんで、もっと安くしないとほかの人に頼みますよ」っていう内容を口汚く伝えてきたこの担当者、いつもならすぐ返事があるのに今日はない。
忙しいのかな。それかこの人も今、体が重いのかな。SNSの写真を見る限りだと昨日の夜は相当飲んだっぽいし。僕ならあれ全部飲んだら悪酔いして排水溝詰まらせるくらい吐きまくって、起き上がれなくなるだろうな。外志さんはどうなんだろう?
あなたが吐きたいものを吐き出したあとに軽くなる人なのか、余計に重たくなる人なのか、あるいは自分のどっかに穴が空いたようになる人なのか、直接会ったこともないし全然分からないけど、そして聞いたところで「そんなものは時と場合による」って内容をまた乱暴な言葉で言われそうだけど、とにかく僕はこれからも最低条件を下げないままであなた(御社)からの受注を途絶えさせないことを目標にして仕事をします。それだけ。いつもどうもです。さようなら。
えっと、次はこっちの仕事――
カタカタカタカタ……カタカタカタカタ……
パタンッ。
数時間後、僕はノートパソコンを閉じた。パソコンを閉じるまでのあいだに河野さんから異動が決まったという連絡があった。それと多分、個人のお客さんが一人、入金前に飛んだ。外がすっかり暗くなっている。夜風が気持ち良さそうだから、窓を開けて掃除をしよう。
部屋が汚すぎるんだ。
― 第三部終幕 ―
掃除を終えて窓を閉め、ホットコーヒーを入れたマグカップと、量り売りで買ってきたチョコレートを何個か持って寝室に向かった。お気に入りの本と漫画と筆記用具、その他小物類が置かれた折り畳みテーブルの上に小さな鏡、それにマグカップとチョコレートを置いて、折り畳みテーブルとセットで売られていた椅子に座りながら、僕は化粧を始めた。今度は顔のほうの化粧だ。
「ふんふーん」
茶色と緑。鼻歌を歌いながら左右で違う色のアイシャドウを塗り、耳には自分で作った不格好なピアスをつけた。
どこもかしこも統一感がない。マグカップに肘があたって倒れた。失う調子とこぼれるコーヒー、少しの火傷。
ホットコーヒーがかかった足の甲、そして床をタオルでポンポンと拭き、僕は火傷用の塗り薬が入っている小物収納ラックに、椅子に座りながら手を伸ばした。
薬が入っているのは何番目だっけ?と、上から順番に抽斗を開けていく。
上から三番目の抽斗を開けたとき、数年前に辞めた煙草、それと自分のものじゃない指輪、壊れたモバイル充電器、切り取られた状態の過去の公選はがきが目に入った。これがどこの御家庭にも存在する『何故捨てていないのか分からないもの多すぎ問題』である。
「ふふっ」
変な笑いが出て、視界に入っている指輪の輪郭が二重三重にぼやけてきた。統一感ゼロのピアスは左右同時に無意味に揺れた。
統一。不思議な言葉だな。バツ0.00もバツ0.95も全部同じ。戸籍は変わらないまま。過程がどうであろうと1にならないものは全て0と見做される。
あらゆるシーンで「まだ色が着いていないんだね」と喜ばれ、「まだ何も出来ていないんだね」と失望される、この1になる前の0という数値。これに統一されることは時にありがたく、時に恐ろしい。
僕は小さく溜め息を吐いて上から三番目の抽斗を静かに閉めた。もういいや。塗り薬はもう探さない。
何となく目線を動かす。折りたたみの鏡に自分の顔が映っている。カラーを変えたばかりの髪を、こってりとした自己愛を込めて適当に触る。鏡の中の自分と目が合った。アイラインは滲むから引かないことにした。“する”は“する”で良いけど、“しない”には“しない”の良さがあるみたいだ。
「あはは、次は何色にしようかな」
また気が向いたら髪を染めようか。それとも黒髪に戻そうか。それから持っている限られた数の衣服のどれかを切って、違う服に作り替えようか。ついでに余ったところを縫い合わせて汎用風呂敷にしてみようか。どういうのがお洒落なのかってのはよく分からないけど、切って縫って、あとくっつけたり、塗ったり描いたり染めたりして新しいものが出来上がってくると何故か気持ちが安定してくる、、、気がする。
衣服を切ったあとのことを想像しながら、地球みたいな形のチョコレートを口の中に放り込んだ。うーむ、今度はほろ苦い。美味しい。また食べたい。
また違う種類のチョコレートを手に取った。この味は何て名前がつけられているのだろう? 包装紙を広げ、文字を読む。
ええっと、ダーク・スターダスト・オブ・ガーナ・ビーエルティー・オニオンサワー・ポテチ・キラキーラ……ああ、もうダメだ。長ったらしいカタカナの文字列って苦手なんだよね。見るだけでアレルギー反応出そう。取り敢えず食べてみようか。
「んん!? こっ、これは!!」
何だ、これ!? めちゃくちゃ美味しいぞ! こってりとした深みのある味! 涙が出そうなくらいに美味しい!!
本当に美味しいよ!! 僕の好きな味!!
「ごちそーさま♪」
ダーク何とかな味のチョコレートを食べ終えたら、今度は塗りたい爪にだけ塗りたい色を塗り始めた。大切だった人に「指先が血で染まっているみたい」って言われて以来封印していたボルドー。
明日は、今日とは違う色を、違う爪に塗ろう。その次の日は絵を描いてみようかな。あとは楽器も習いに行ってみたい。
「そうだ。次は、次はさあ……」
次は……
「あははっ」
最後に口に入れたチョコレートと同じ種類のものが目の前にある。それを今すぐ食べたいけれど、お楽しみにとっておこう。
凄く眠いから。
椅子から立ち上がって洗面室に向かう。そして歯磨きをして、ダークチョコレートの色になった洗面台を透明な水で洗い流した。
面白くない一発芸みたいに静かに柔らかく流されていった。
寝室に戻って、ベッドに横になった。今日までに出来ることは全部やった。もう今が何時か知る必要なんてない。仰向けになって全身から力を抜き、天井を見た。顔みたいなシミがある。枕の上で顔を左右に動かす。右耳の手錠のピアスが少し重い。
ほかにはどこにも気になる汚れはない。掃除は予想よりも時間がかからなかったし、体力も使わなかった。
「思っていたよりも汚くなかった」
それでいて少しシミがあるから丁度いい。あとは体が軽くなってほしい。でも遊び道具は重たいほうがいい。
― 第四部終幕 -
「プ、プ、プ、プニョ~ン」とスマホから通知音が鳴った。思わず「ぷっ」っと噴き出す。不思議だ。僕の体は通知音を変えるだけで自然と笑みがこぼれる仕組みになった。一気に眠気が飛んだ。
ベッドから起き上がり、テーブルの上にあったスマホを手に取り画面を見ると、何かのきっかけで友達登録した『今日の豆知識』というアカウントからメッセージが届いていた。
【今夜は新月です。新月の日は願い事が叶いやすいと言われています。是非今夜は願い事を…………】
「新月? しん、げつ? 新しい……」
僕は文章をすべて読み終える前にスマホをテーブルに置き、椅子に座った。願い事は特にないけど、何かを新しくしたい気分。それから捨てたい。いらなくなった古いものをとにかく捨てたい。
取り敢えずは小物収納ラックの中の不用品をすべて処分しようと、今度はラックの下から順番に抽斗を開けていった。下から二番目の抽斗を開けたとき、趣味の折り紙が目に入った。
僕は折り紙をしばらく無言で眺めたあと、それを取り出し、ハサミを手に取って、チョキチョキと切り始めた。今日は僕用じゃなくて、天井の顔に似合いそうな服を作ってみよう。これがどこの御家庭にも存在する『何故か急に整理整頓意欲が湧いてきて、でも結局脱線する問題』である。
チョキチョキ、チョキチョキ。
チョキチョキ、チョキチョキ。
「今夜は新月かぁ。ふーん……」
チョキチョキ、チョキチョキ。
チョキチョキ、チョキチョキ。
「新しい、月……」
ジャキン!!
僕は一度ゆっくりと呼吸をし、なるべく音が出ないよう静かに折り紙とハサミをテーブルに置いた。
すっと椅子から立ち上がり、窓辺に立って窓を開ける。
「気持ちいい」
心地の良い夜風が一気に部屋に入ってきた。僕はその心地良さに浸りながら、空を見上げた。見えないけど、そこに月があるのかぁ。
「僕もそっちに行ってみたいな。フィクションでもノンフィクションでもいいから」
七階のこの部屋の窓辺から空に向かって手を伸ばした。目に見えない、透明なものだけ掴めた。見下ろすと、いくつもの明かりが灯っている。
そこは、月明りがなくても問題なく歩ける場所。今もどこかで何種類かのフィクションとノンフィクションがあらゆる形で混ざり合っているのだろう。目に見えない袋の中で。
いつか僕の好きなフィクションとノンフィクションの種類だけを、僕の好きな分量だけ量り売りしてほし――
「いや、いらない」
見えない月の姿を想像して指で空中に描いていたら、めちゃくちゃ美味しかったさっきの月形チョコレートのことを思い出した。
やっぱりそういうの、いらない。“快”は色んな種類が混ざったなかから現れるのがいいんだよ。まったく無いのも辛いけど、百パーセントにはならないで。
《どんな“当たり前”も欲しくない》
風がどんどん心地良くなる。
体はもう重くない。軽くなった。僕はゆっくりと目を閉じた。一瞬、美しい天体が見えた気がした。
「ありがとう。おやすみなさい」
― 最終部終幕 -
― 以上を持ちまして、公演はすべて終了致しました -
******
お読みいただきありがとうございます。
以下は、作り手の個人的な話です↓
長編作っている途中ですが、久しぶりに短編ストーリーを作りました。同じテーマ(新月)に沿った違う物語を続けて載せるっていう経験がなかったので、いい経験になったと思います。
【作品をここに載せるまでの動き】
⓪数年前、ライブ配信を垂れ流しながらダラけきっていたら、偶然「新月の日は願い事をすると叶いやすいらしいですよ」と聞こえてくる。そのときは「ふーん」くらいに思って特に気にせず。
①時を経て、バスケ動画をみながらダラけきっていたら何故かふと⓪の出来事を思い出し、そこからストーリーを思い付く。
きっかけは大抵LDD(LongDaraDara)。
② 作成を始める。
③ やたらともみじ饅頭が食べたくなる。(多分、手を伸ばす描写→手→もみじ→もみじ饅頭)
④ やたらとチョコレートが食べたくなる。
⑤ やたらと月見〇〇が食べたくなる。
月見うどん、月見焼きそばを経て、最終的に月見味噌汁に落ち着きました。食べ物の世界の満月を新月にしていく過程はたまりません。作り手自身はあまり何か願い事をするってタイプではなく、食欲の秋もあってか、月に願う描写から食欲に辿り着くという結果になりました。
本当に最近は「〇〇食べたい」って思うことが多いです。気付けば長時間ずっと食べ物について考えていることもあります。すべては素晴らしき秋のせいです。
それでは。
あなた様の貴重なお時間のなかで、この約二万字のロング文章を読むという選択をしていただいたことを本当に嬉しく思います。
そして、このように自由にマイペースで創作が出来る環境について、これは決して当たり前にあるものではないのだと、人と運に恵まれて出来ているのだと、心からそう思います。
有り難う。
とても嬉しいです。ありがとうございます!!