記筆

1年のうちで最も祈りが生まれる日だと思う。自らを想い、誰かを想い。
かなり衝撃的な出来事がそんな日に起きたわけだけど、私は本当にその数時間前にまさに「祈った」ばかりだった。そういうことが起きませんようにと

「祈ること」は目に見えるし耳にも届くけど、「祈り」そのものは目には見えない。自分は祈っているときそれをたしかなものとして認識しているけれど、実際それは目には見えないふたしかなもの。そう真正面から感じさせられて無力さ・やるせなさを感じた。いや、本当はこれまで生きてきて何度かうすうす感じたことはあったけれど目を背けていただけで、
ここまでがつんと自分の今行った中での最大限の祈りが目の前で崩れたことで、それが表に出てきただけなのだけど。



前向きに考えたい、無理やりにでも。物は結局考えようだと最近改めて思う。20代に入ってからより深くそう感じる。物事は思ったようになるというよりも、思ったように自分が物事に対して動かざるを得なくなるから。
私の場合の話だけど、昔から結構心と体が直結しているのだ。
いい意味でも悪い意味でも



決して祈りは無意味だとか、もちろん今日起きた出来事を「人生何が起こるかわからない」「そんなこともあるよね」とかそういう風に片付けるのではなくて
全てに意味が無くて全てが予想もつかないからこそ、逆にそれら受け止めて、抱えて生きていくしかないのだ感じたのだということ。
なんとなく徒労というよりも別の姿となった一種の希望ということにしておきたい。

虚しいと感じられるかもしれないし実際そうかもしれないけれど
今の私にとってはそれが生きていく上での思考や信念の基礎になるかなと思って。メモがてら記す。2024年の元旦はこんなことを想っていましたよ、ただそれだけのこと。


(note折角元旦に書き始めてみたわけだし毎日書けたら続けてみよう♪)

追記:やっぱり毎日無理だったけど、楽しく続けられてる♪ (2024.05.02)

かなりの飽き性で本当に続けられたことって少ないし…
あでも無理は禁物!楽しくなくなるから。楽しいのが大事。過去のこともどんどん忘れてるし未来なんてほんと、明日どうなるかさえわからないし、今日の夜のことだって30歳になったらもう忘れているだろうし。

今を楽しく、毎日たくさんいろいろなことを考えてはみるけどすべてを無理なく。
その意識をもって生きていこうー これからも。

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