演出の手間、手間の演出

 hololive DEV_IS ReGLOSSの 「フィーリングラデーション」という楽曲のMVを題材に、一つひとつのカット・シーンをじっくり眺める、「反考察」的なアプローチを実践してみせることが本稿の目的である。

 先ほど「反考察的なアプローチ」と述べたが、「考察」とは何か。どのように定義されている言葉なのか、もしくはどの定義(文脈)に乗った言葉なのか。それを明かすところから始めたい。本稿における「考察」とは、以下に示す難波の定義付けに則っている。

考察とは、楽曲やアニメーションの内容にある程度整合的な解釈を与える行為だ。だが、考察が考察たる由縁は、決してオーソドックスな意味での批評ではないということである。(中略)考察者たちは作品を元にして自分の独特な作品解釈を語る。考察者が自分ならではのプリコラージュした分析枠組みを作ることで考察者の望みは達成される。

難波、2024、P.152

 「A→?→C…」と続いていくような記号の羅列に、「前後の文脈から判断してBが当てはまるな」と、受容者(≒考察者)が手に入れられる情報から「整合性の取れそうなもの」を導き出すような振る舞いが「考察」なのだろう。
(プリコラージュ:あり合わせ道具や材料で物を作ること)
 本稿では、こういった行為を徹底して避ける。あくまで一つひとつのカットやシーンに目を凝らす。それは地味で、かつ退屈だ。しかし、単調でつまらないことを繰り返さないと見えてこないものは、確かにある。

 「手間」。これこそ「考察」では見えてこないものだ。そのカットにどれだけの「手間」がかけられているのか。受容者に「手間がかかっているな」と思わず感嘆させる工夫も然りだ。「フィーリングラデーション」のMVには、前述の「手間を演出するための『手間』」が詰め込まれている。
 

 では、具体的な場面に触れつつ、「手間を演出するための『手間』」を解説していこう。
まず注目すべきは、本編3分16秒から17秒にかけての流れだ。「グラデーション」と歌っているのは、火威 青(ひおどし あお)のみだ。だが、他4人の口(の動き方)をよく見てほしい。歌詞に合わせて「グラデーション」と動いていることが分かる。前述したとおり、該当部分歌っているのは、火威 青だけだ。つまり、「他4人の口を動かす」必然性はどこにもない、と言える。だとするならば、口が歌詞に合わせて動いているのは、「手間」を(余計に)かけた部分ということになる。次に、その流れが「手間をかけている」と伝えるための演出について述べたい。ここは、本編2分50秒〜3分17秒にかけての流れに注目すべきだろう。2分50秒から、執拗にメンバーの口元を画角に収めている。そして、その「口元」は歌詞に合わせて動いている。2分50秒より前では、メンバーの「口元」に焦点を当てていなかったように思われる。そのため、このことがより強く印象に残ったはずだ。
 「手間」を演出するために、「口元」に焦点を当て、歌詞に合わせて動く様を見せつける。そして、歌っていない(口を動かす必要のない)メンバーの口まで動かしてみせる場面を用意することで、かけた「手間」が受容者に伝わるのだ。

 ただし、ここまでに述べてきたことは、画面に映る要素を削ぎ落としてきた結果だと、すなわち「メンバーの口の動き」に注目する必然性などなかったと断りを入れなければならないだろう。

蓮實さんの批評の方法っていうのは、「ここにも赤がある」「ここにも赤がある」というのをやっていくんだけど、赤でなければならなかったとは言わないし、言ったら整理しないはずなんです。

佐々木、2008、P.137

 前述した引用部分で、佐々木は蓮實重彦の著書『赤の誘惑』を参照しながら、蓮實的な批評のやり方について述べている。
 確かに、「口元」や「歌詞に合わせた口の動き」に注目しなければならない理由は、どこにもない。必然性もない。だが、このような読み解き方では、映像のごく限られた部分にしかスポットが当たらないのも、また事実だ。

参考文献
佐々木敦、2008『批評とは何か?批評家養成ギプス』ブレインズ叢書
難波優輝、2024「いよわと考察の美学〈明らかに行方不明なペルソナ〉といよわ化する考察者たち」『ユリイカ』第八二六号(第五六巻12号)「特集 いよわ」、151-161

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