見ないフリ(1165字)

生前、母は体育教師でバレー部の顧問だった。父は趣味で少女バレーの監督をやっていた。ぼくにふたりいる姉も、当たり前に小学一年生からバレーボール漬けになるほどのスポーツ一家だ。ぼく自身もあたりまえのように小学校入学から半強制的にスポーツをさせられてきた。
いや、させられてきたというのは正しくない。こんな家に生まれてきたのだから、もう学生時代はスポーツをするものと刷り込まれていたのだと思う。
小1から大学卒業までの約15年間、スポーツと向き合ってきた訳だが、客観的に見ると、自分はスポーツに向いていないのではないだろうか、と、ぼく自身は、そう自己分析している。
まず第1に運動神経がない。球技は特に苦手だ。

小学校に上がると、父が突然グローブを買ってきた。阪神タイガースの大ファンの父は、親子でするキャッチボールに憧れていたのだろう。2年生で始めたソフトボールは、結局まともにキャッチボールすらできず、1ヶ月も経たずにやめることになった。
友人たちと遊ぶドッジボールも苦手だった。それに気づいてからは、ボールを使うスポーツは避けて通った。
そしてもうひとつ、向かない理由がある。ぼくには相手にどうしてでも勝つという闘争心がないように思うのだ。

世間を見渡すと、多かれ少なかれ勝ちにこだわる人はそれなりの割合で存在しているだろう。何と言っても勝ちにこだわる人は目立つように思う。このタイプの人は勝ちにこだわっていることを公言することも多いような気がする。なにかで負けたときの感情の出し方は、ストレートすぎるくらいストレートで、見ているこちらは、気持ちよささえ感じる。

仮にこういった目立つタイプの勝ちにこだわる人が10人に1人くらいいたとしよう。残りの9人が勝ちにこだわらないのかと言うとそうとも言えないのではないだろうか。
ここからはぼくの経験からくる私見だ。
今までの人類の歴史は、勝つことで作り上げられてきた歴史なのではないだろうか。となると、もっと勝ちにこだわる人間の割合が多いはずだろう。
想像だが、勝ちにこだわらないように見えるタイプの中には、勝つ自信がなく、勝つ可能性が低いからと、戦う前に勝負を避けて通るタイプが少なからずいるように思うのだ。
そう結論付けする理由は明快だ。ぼく自身がそうだからだ。
ほとんどのスポーツに勝ち負けはつきものだ。今までぼくはスポーツで、積極的に勝ちたいと思わなかったように思いこもうとしていた。それは嘘だ。負けた後、心の中で悔しがらなかったことはない。いつもそれが顔に出ないように平静を装ってきた。そしていつのまにか、ぼく自身、勝つための努力をやめ、勝負から身を遠ざけて生きてきたように思う。

先日、友人が「わたしは自分に勝ちたい」と教えてくれた。その友人のまっすぐな視線から、ぼくは目を逸らすことしかできなかった。
(キャプロア出版刊週刊キャプロア出版第4号「勝負編」掲載)

#コラム

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