オレンジ色のおにぎり
学校を卒業し、大阪でひとり暮らしをしていたぼくは、阪神大震災がきっかけで、明石にある実家に帰ってきた。
引越しの荷物を家に入れ、片付けの済まないまま、2階にある自室でマットレスの上に寝っ転がり天井を眺めていた。南向きの窓からは太陽の光が差し込んできている。
もうすぐ昼だ。
もう春とは言え、鉄筋コンクリートに絨毯直張りの床は冷たい。
震災の影響で昼間は国道が閉鎖され、夜中でも渋滞する。大阪南部、泉大津からの引っ越しは、最近結婚した姉夫婦に手伝ってもらったにも関わらず、昨日の夕方から、ほんの今さっきまでかかってしまった。
引っ越しのダンボールの山を前に疲れ果て、片付ける気にもなれず、久しぶりの実家で落ち着かずに、ただ天井の染みを見上げていた。
ドアにノックの音がした。
ぼくは短く声を出し返事をした。
ドアを開け父が顔を出し、ぼくの顔を確認するように見ると、安心したような表情で入ってきた。
「飯でも行くか?」
ぼくは父の方に顔を向けたが、すぐに天井に視線を戻し短く返した。
「いや、いいわ」
父は、「そうか」とだけつぶやくように言うと、振り向いてドアから部屋を出ていった。
振り向く瞬間の顔は少し寂しそうな表情に見えた。
ドアから出ていく父を見ながら、ぼくは、本当なら呼びにくるのは母か姉だったろうなと、ぼんやりと考えていた。
ちょうど4年前の今頃の夜のことだ。呼びに来たのは母だった。
大阪にある大学の2回生で、寮生活をしていたぼくは春休みで実家に帰ってきていた。
家族で夕飯をすませ、自室で寝ころびマンガを読んでいた。
音を立ててドアが開き、パジャマを着た小柄でずんぐりした母親が入ってきた。
高校の体育の教師をしていた母は、いつでも真っ黒に日焼けしていて声も大きかった。
「ちょっとこっち来て!」
さっきまで笑顔でご飯を食べていた母が、血相を変えてぼくを呼んだ。
母は、丸顔でいつも笑っている印象がある。その母が、今はその目を血走らせていた。
ぼくの手を引き部屋を連れ出し、自室のとなりにある父の部屋に連れて行く。
狭い廊下を通り、父の部屋に入った。
ドアのそばに有る書斎机の椅子に座らされた。
父は、苦痛に顔を歪めるような、いかにも居ごこちの悪そうな顔で、大柄な体を部屋の奥にあるベッドに座っていた。
顔は、けっしてこちらに向けない。
2、3秒だろうか。すこしの間があり、母親が怒ったような口調で口火を切った。
「お父さん、浮気してたんや」
ぼくも父も声を発しなかった。
「7年も!相手の写真も見た!確かにわたしより若いしキレイやし!」
突然のことにぼくはかろうじてひと言だけ、父に向けて発した。
「ほんまなんか?」
父は目線を、どこに向ければいいのか分からないように泳がせた。
「ほんまや、でももう別れた。お母さんも向こうに電話したりしたし、別れたんは分かってるはずや」
つぶやくように、最後は母に言い聞かせるように聞こえた。
母は、それが聞こえているのか聞こえていないのか、父の言葉にかぶせるように続ける。
「7年やで、7年!!お父さんの手帳、これ見てみ!予定に初節句とか、七五三とか予定書いてる!浮気相手に産ました自分の子どもってことちゃうの!?」
ぼくは心の中でため息をついた。
父が浮気していることは薄々気づいていた。何年か前に、父と浮気相手の写真を、なにかの拍子に見てしまったことがあった。
母には伝えなかった。
そんな父親と、大好きな母がなぜ夫婦で居つづけるのか、ぼくには分からなかった。
頭の中では、そのときなぜ伝えなかったのか、なぜ離婚をすすめなかったのか、そんな感情がぐるぐる回っている。
母は叫び続けていたが、内容はもう頭に入ってこない。叫び声を聞くたびに、ぼくは胸の上を冷たい手で撫でられるような感覚で苦しく、目をつぶった。
いつも強くて正しい母がとりみだして泣いていた。ぼくは初めて見たそんな姿にとまどって、どうすることもできなかった。
部屋のドアが内側に向けて勢いをつけて開いた。
パジャマ姿の姉が、思い詰めた表情で入ってきた。
顔は赤く、見るからに身体が固くなっているように見える。
「もうやめて!」
母の声に負けない大声で姉が叫ぶんだ。
「近所迷惑や!それに毎日毎日お母さんもしつこいねん!!」
「でも、ほんまのことやないの。我慢できへんねん」
母が返す。姉の声にほんの少し冷静さを取り戻したように見えた。
姉が母と父の間に割って入った。
「お父さん、もう別れたって言ってるやん!それでも許されへんのやったらもう別れたらええねん!」
母が答える。
「そんなこと言われても、もうどうしたらいいのか分からへんねん。」
いつの間にか母の声は涙声に変わっていた。
叫び声の主導権はいつの間にか姉にうつっていた。
「毎日毎日!お母さんの叫び声を聞かされて、わたしもおかしくなるわ!!」
姉は泣きながら何度も叫び続けていた。
その横で母は放心したように座り込み、泣き続けている。
父は相変わらずうつむいたまま、黙っていた。
ぼくは、自分がどんな態度をとればいいのか分からず、椅子に腰を下ろしたまま、父親をにらみつけていた。
ただこの暴風が、早く通り過ぎてくれるよう祈っていた。
数日後、ぼくは大学の寮に戻った。
あの夜、どうやって事が収拾したのか。ぼくの記憶には無い。数日後、姉から電話があり、とりあえず落ち着いたと聞いたように思う。
安堵もしたが、本当なら自分がもっと気のきいたことを言えればよかったと、少し後ろめたい気持ちになったことは覚えている。
この件は、ぼくの中では終わりを告げ、新学期が始まった。授業に部活にアルバイトにと、忙しい毎日を送っていた。
夏休みが近づき、休暇で帰る連絡のため実家に電話を入れた。母が出た。ぼくがいつ帰るかを告げるとうれしそうだった。
この間の狂ったような叫び声が嘘のようだ。
「食べたいものある?準備しとくわ」
ぼくは少しだけ考え、
「鮭のおにぎりがいいな。あの鮭をおにぎり全体に混ぜ込んだやつ」
と答えた。
ぼくの頭の中にはすでに鮭の身でオレンジ色になったおにぎりが浮かんでいる。
母は、「そんなんでいいの?」とブツブツ言いながらも、準備しておいてくれると言ってくれた。
ぼくは大好きなおにぎりを楽しみにしながら電話を切った。
夏季休暇を翌日に控えた日、寮の電話が鳴った。電話番の後輩がぼくの部屋の外から声をかけた。
「お電話です!」
ぼくはパジャマ代わりのスエット姿のままドアの前でスリッパを履き、部屋を出、廊下にある電話に向かった。
ピンク色の電話の前に立ち受話器を手に取り耳にあてる。
受話器からは姉の声がした。その声は震えていた。
ぼくの名前を呼ぶ声が聞こえた。搾り出すような声だった。
姉の声は続けた。
「お母さん、死んだんよ」
姉は何回か言ったように思う。母は自殺だった。声は耳に入ってきていたが、ぼくはなかなかその言葉の意味を理解できなかった。
理解したあとも身体はフワフワして、言うことを聞かなかった。
ぼくは頭の中に痛みを感じていた。
数年してぼくは大学を卒業した。
地元には帰らず大阪で就職を決めた。
その間に姉は結婚して実家を出た。
母が亡くなってからぼくは実家に寄り付かなくなっていた。
震災をきっかけにしたとしても実家に戻ろうと決めたのはなぜだったろう。
天井の染みを眺め、ぼくは考えつづけていた。
ノックの音で目が覚めた。続いて姉の声が呼ぶ。
「ご飯できたよ」
ぼくは生返事を返した。階段を下りる姉の足音が聞こえた。
天井を眺めているうちに、いつの間にか眠ってしまったようだ。ぼくはあくびをかみ殺しながら上半身を起こし、少し伸びをした。
部屋を見渡す。窓からの日差しは、もうほとんど部屋の中には届いていなかった。
ぼくは立ち上がりカーテンを閉めた。部屋の出口に近づき右手でドアを引きあけ部屋の外に踏み出した。
炊きたてのご飯の匂いが漂っている。
後ろ手にドアを閉め、目の前の階段を下りる。足が重い。階下に近づくと、ご飯の匂いに魚の脂が焼ける香ばしい匂いが混じってきた。
階段を下りきり廊下を右手に歩く。5歩ほどで突き当たり、左手のダイニングのドアを押し開けた。
目の前の食卓のまんなかには、40センチ以上もある大皿があり、その上にオレンジ色の大ぶりな鮭のおにぎりが2段にかさなって山のように積み重なっていた。
食卓には、すでに父と姉は向かい合わせで座っている。ぼくはいつものように姉の横に腰かけた。
手を合わせ、横目で姉の方を見ながら小さく「いただきます」とつぶやく。
味付け海苔の袋を破り、1枚取り出す。
その海苔で包むようにおにぎりを手に持つと、ぼくは大口をあけ、かぶりついた。
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