温度(2070字)

性というテーマで思い出せる 1番古い記憶はなんだろう。しばらく考えていると思い出した。あれは小学生高学年の頃だった。きっとあれがぼくの初恋だったのだろう。

玄関先にランドセルを置いて自転車に乗った。町内の公園に向かう。誰とも待ち合わせなんてしていないが、いつも公園には誰かしら知ってる友だちがいる。遊び相手にはこと欠かない。

公園には顔見知りではあるけどほとんど喋ったことない女の子の姿だけがあった。彼女は背が高く髪が短い。スポーツが得意で走るのも早い。ボーイッシュなんだけど大きな優しそうな瞳が印象的だった。
彼女は公園の入り口の、向かって左側の低い壁の上に腰をおろしていた。ぼくはマネするみたいに反対側に座った。 3分くらいだろうか。だれか来るのを待ったが誰も来る気配は無いようだ。
ぼくは思い切って正面を向いたまま彼女に声をかけた。
「誰も来いへんなぁ」
少し声が上ずっている。彼女は少しがっかりそうな顔をこちらへ向けた。
「せやねん」
ぼくは彼女の方を向くことができなかった。
「なんかおやつでも食べながら待とか」彼女が座っていた壁から飛び降りる。
「うん、そうしよ」

ふたりで近所の駄菓子屋に行き 20円で売っている粉のジュースを買う。
もう一度公園にもどる。今度は横並びで壁の上に座った。
喋りながら彼女は粉ジュースを人差し指に少しつけて口へと運び舌でなめる。横目でチラッと見た彼女は、クチビルと指がオレンジ色の液体で光っていた。
いつもはお喋りなぼくだが今日は聞き役にまわっている。彼女は話の途中何度も満面の笑顔をこちらへ向けたが、そのたびにまぶしくて視線をそらした。

しばらくして、ぼくは公園の入り口にある電話ボックスを指さした。
「あそこにある電話さあ。なんか赤いボタン押したら警察とかに電話できるんやろ?」
彼女がぼくを見る。
「なんかそうやって書いてあるよね」
今度はぼくも彼女と目を合わせた。
「やってみいへん?」
彼女が目を丸くする。
「え?でも警察とか消防署とかにかかったら怖くない?」
ぼくは門から飛び降り、彼女の方に振向きながら腰に手を当てた。
「そんなん、電話なんか切ったらしまいやん。今やったら他に誰もおらへんからチクるやつもおらんで」
彼女の表情がやわらかくなった。
「それはそうやね。」
そのあとも 5分くらいだろうか、掛ける掛けないとふたりでけしかけあっていた。
ふたりとも好奇心に勝てず掛けてみることにした。

ぼくが先に電話ボックスに入ると、折りたたみのドアを開けて彼女が入ってくる。思い詰めた表情に見える。
ドアを閉めると、ふたりの体温で電話ボックスの中の温度が 2、 3 ℃上がったように感じた。ぼくは右手で受話器を取り上げると赤いボタンを押した。ビーって音が鳴った。
ぼくは受話器を持ったまま彼女を見た。
「やっぱ 110番かな?」
彼女はすこしクビをかしげた。
「そやね」
ぼくはうなずいた。
「交互に押そか」
ふたりともボタンを押す手が震えている。「おれから押すわ」
彼女が目で返事した。
「1」
「1」
「0」
ぼくが持っている受話器に顔を寄せてくる。彼女の息遣いを感じる。ふたりとも声を聞き取ろうと夢中になって受話器に耳を当てようとする。ふたりの頰がくっついた。自分の顔が耳まで熱くなっていくのを感じる。電話が掛かるまでほんの少しの時間だったろう。それがいやに長く感じる。

受話器の向こうで一瞬だけ呼び出し音がなり受話器を取る音が響き、間髪いれずに声が聞こえた。
「はい警察です。どうしましたか?」
ふたりで顔を見合わせた。彼女が目をまんまるに見開いている。まだ受話器の向こうでは誰かが話ししていたがぼくは怖くなってすぐに電話を切った。胸の鼓動が速くなっているのを感じる。
先を争うように電話ボックスから出た。もう一度ぼくらは顔を見合わせた。彼女は顔に赤みが差していた。息遣いも少し荒いようだ。
ぼくは無理に強がった顔を彼女に向けた。
「怖かったね」
彼女の顔はまだ赤かった。
「ドキドキした」ぼくは胸を思い切りはり両手をポケットに突っ込んだ。
「でも、やっぱり切ったら終わりやん」
彼女もぼくを真似てポケットに手を入れた。
「大したことないね」
自分たちがさも勇敢な人間のように話していた。彼女の顔には安堵とちょっとした達成感が浮かんでいるようだった。

突然電話が鳴りだした。ぼくは一瞬何が起きているのか理解できなかった。振向いて激しい音を立てる電話ボックスの方を見る。
「え?なんやこれ?!」
彼女の顔色が白くなった。
「警察からかけてきてるんちゃうのん?!」
ぼくは自分の目が泳いでいるのを感じた。
「もしかしたらパトカー来るんか?」
彼女の目がぼくの顔を不安そうに見た。
「逮捕されるの?」
ぼくは彼女に鋭く叫んだ。
「ヤバイ!逃げよ!」
電話は鳴り続けている。ふたりとも大慌てで自転車に飛び乗った。ぼくは自分の家の方向に猛スピードで走り出した。
逆方向に自転車を漕ぎ出した彼女を振り返る。必死にペダルを踏む彼女の顔は笑っているようにも見えた。
家に帰って玄関ドアを開ける。ドアが閉まってもまだ、彼女の頰の温度が残っていた。

(キャプロア出版刊週間キャプロア第2号「性と愛」収録)

#エッセイ

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