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ヘレン・シャルフベック 魂のまなざし

「フィンランドの女性画家」これだけで私の心を掴むのには十分。高校生の頃に舘野泉さんの本を読んでから、私にはフィンランドへの憧れがあった。

芸大の美術館には初めて足を運んだ。コンパクトで、程よい展示量だった。作品が初期から晩年まで、ヘレンの人生に沿っての展示だった。音声ガイドが小林聡美さんだったので珍しく借りてみたら、ヘレンの手紙や残した言葉の箇所だけの吹込みで、あとは男性のナレーターさんだったのでがっかりした。でも、小林聡美さんの読み方はとても良かった。ヘレンのことがますます好きになるような、そんな読み方だった。

ヘレンは霊的なものが見えるタイプの人だったのかもしれない、と思った。特に初期の作品には、光の玉がふわふわ浮いていて驚いた。それから、おでこ。額は運気やスピリチュアルな力の出入り口だったりするのだけど、ヘレンはそこに注目しているような気がした。光源によっておでこに光が射すことは珍しいことではないけれど、ヘレンの人物たちの額はそういうのとは関係なく白く輝いていた。甲冑の少年だけが、展示された作品の中ではおでこが暗かったので、逆に印象に残った。

ヘレンは「見る」のが好きだったんだなあ、と思う。人や動物や風景、素敵な作品たち。そして、それらを見るときの区別がない気がした。人も動物も風景も、同じ温度で同じ愛情をもって視線を注いでいるような気がする。彼女のデフォルメの仕方は、その対象の内側の心や意思を捉えているからなのか、とても自然なものに感じた。人の絵が多かったけど、とんがった輪郭、まるい輪郭、晩年の歪んだ自分の顔、ある意味「見えたまま」を書いているような気がした。

好きな人との恋にやぶれたときの自画像を「自傷行為」と解説しているのは嫌な気分になった。心がズタズタになったヘレンは、その時のありのままの自分を描いただけだろうに、と思う。うまく言えないけれど全く別のもの。ヘレンは、うつくしいと思うものを愛しいと思うものを描きつづけた人だと思う。人物の絵がたくさんあったけれど、どれも自分の気に入った人を描いたという。頼まれて肖像画を描くことはなかったという。

最後の章の静物画と熟れた桃のようにやわらかくて脆くて甘い死臭がする緑のタイルに溶けそうな自画像もとても好みだった。そこにある光は、初期の頃と真逆で、いかにも力尽きそうで乾いたものだったけれど、わたしはそれをとても愛しく感じた。彼女のエネルギーはきっと人より少ない。絵を見ていてそう感じた。片脚をなくしたのも、もともと持って生まれたエネルギーを絵に集中させるために神様が与えたギフトのようだな、この人の場合は、と、心の片隅で思った。剥き出しの魂に触れるような旅だった。自画像の強い眼差しが今も私の脳裏にこびりついて離れない。

ヘレン・シャルフベック
魂のまなざし

ayano goto 20.Juillet.2015

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