うるせえ女

私はうるせえ女が嫌いです。
嫌いなので、敬意を込めて「女」と言わせていただきます。うるせえ女。

うるせえ女というのは、単純に声がでかいというのも勿論あります。うるせえ一つの要因に、声の高さもあるのでしょう。低い音よりも高い音は耳に聞こえやすい気がします。女の声はおそらく、男の声よりも大きく聞こえるのだろうと思います。
うるせえ女の声は頭に響く。ただでさえ1ミリも耳に入れたくないのに。
喋ってる内容もどうでもいいしうるさい。どうでもよくなくても、「どうでもいい」と思うようになっています。
お前の世界はお前が中心に回っているんだろうな、と思わせてきます。

うるさい、というのは勿論、私が相手に対して良い印象を抱いていないからうるさいように聞こえているだけ、というのもあるとは思っています。
でもうるせえんだよな、マジで。そういうのありませんか?

あと、何故かわかりませんが、うるせえ女には謎に影響力があります。
うるせえ女は多くの場合早口だし、コミュ強であることも多いです。うるせえ女がちゃんとコミュニケーションを取るから人も多くいて、行動に移すことも多いんだろうなと思い、そこに関しては素直に尊敬しています。
しかし、私はいつも、「みんな本当にあの人のこと好きでつるんでいるのかなあ」と思ってしまいます。
うるせえ女は大概、私に対してはうるさくしてきませんので。私の心のシャッターが、1枚目から全て頑丈に、それはそれはもう、台風にでも備えているかのように、しっかりと閉まっているからです。

昔からうるせえ女が嫌いでした。
うるせえくせに、自分からは行動しない、陰口を叩いてくる陰湿な人間。
大人になってもこんな風に、初対面から「この人とはやっていけへんなあ」と思うような人がいるもんなんだなあ、と驚くばかりです(大人になったら、もう少し取り繕えるようになると、思っておりました)。

どうしてなのだろうと、シャワーを浴びながら考えていた時、ふと、頭の中には数々のうるせえ女が浮かんで消えてくれませんでした。
うるせえ女というのは往々にして、スクールカーストの上位にいたのでした。

私は、もう10年以上も昔から、ずっとずっと、うるせえ女たちの冷ややかな目線を浴びながら生きていたのかと思えた時に、やっと納得できました。
私が通っていた学校では幸いにも、堂々とした、漫画やドラマのようなイジメこそありませんでした。けれども、ちょっとテンポのずれているような子に対する扱いの違いのようなものはあるし、奴らは群れているのでした。
私はそれを見て、「どうせ私もこうやって陰口を言われているんだよな」と実感しつつ、そこには決して交わることをしたくないと思っていました。
私は、他人とのコミュニケーションのために嘘を付くのが、どうしても、気持ち悪くてしたくないのです。他人と群れるために、思ってもいない悪口を言えるような人間ではなかったのです。

しかし、私が私らしく生きる上で常に、うるせえ女たちの架空の悪口が頭の中をよぎっていました。うるせえ女は、私の脳内の仮想敵だったのかもしれません。
うるせえ女たちが今日も私を責めてきます。ヘラヘラと薄い笑いを浮かべて私は受け流そうとします。
そうやって、私の心の中には、うるせえ女に対する憎悪が刻まれていったのだと思います。

うるせえ女というものに対して、私は尊敬を覚えている部分もあります。
奴らは、大抵の場合、女性としての自分を磨くことを意識し、群れるために努力をしています。これは、私にはできないことです。目でピーナッツを噛むくらい、できないことなのです。
ここに関しては素直に尊敬しています。それができないから私は孤立しましたが、孤立することよりも他人に対する合わせることのほうが苦痛でした。
ですから、私はうるせえ女たちとは過ごさずに、心を穏やかに生きていくことができたらそれでいいなと思っています。
それでもうるせえ女たちは、私の視界に絶対に入ってきます。その上、私以外の人間とけらけらと笑った同じ口で、私に対して冷たくしてくることもざらですから。

うるせえ女と関わらずに生きていきたい。
本当にそれだけ、もしかしたら私の一番の希望かもしれません。
けれど、うるせえ女というのは私の体感であれば10人に1人くらいはいるものです。今後も社会との関係を絶たない限り、奴らと関わらずに生きるのは難しいのでしょう。
死ぬまでのウン十年をかけて、やつらの前でも平静を保てるようになるしかないのでしょうね。

人の振り見て我が振り直せ。
私から、私へ。