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人生の重荷リリース⑫:母が宗教に入って生きづらくなった子供の話

ここまで元JW2世としての経験をアウトプットしてきました。吐き出し療法として始めたこの企画ですが、今まで隠しに隠して誰にも言わずに漬物にしてきた記憶(もう腐ってたかも)を、自分史上最大に放出できました。

もちろん、これが全てではありませんが、まあよく出したな、出せたなという実感です。その分心が軽くなったかどうかは、この後追々わかることでしょう。

ただ、執筆にあたり、気力を多大に消耗しました。ここ1週間、体力も消耗しておりまして、エネルギー切れ気味、ガス欠の自動車のような状態です。

そんなに時間とエネルギーを使って、自分は何を知りたかったのか。

「重荷をリリースする」ということが至上命題ではありますが、私の本質として、何かに熱心に取り組む場面において、その裏に「何かを知りたい」「何かを見つけたい」「何かを得たい」という動機が必ず存在します。知りたがりやさんなのです。もし仮に、表面上の物理的な結果がマイナスであったとしても、それに対して悔しがる気持ちも沸く一方で、「へぇ~」「なるほど~」をゲットできると意外と満足できていたりします。

執筆にあたり、薄れている記憶を補うために他の元JW2世さんの発信を拝見・拝読しました。親や周囲の圧力の度合も、本人の気持ちの度合いも、人それぞれであることが大前提である上で、「脱会後、どのような人生を送っていらっしゃるのか」「心をどのように解放されているのか」を探ろうとしている自分がここにいました。

私は「やりたいことを禁止され、やりたくないことをやらされる」子供時代を送ってきました。JW前から母の支配は強烈で、「合成着色料が使われている食べ物は絶対禁止」されていました。基本的に子供が好む駄菓子屋系のお菓子は全く食べさせてもらえませんでした。真っ赤な三角形のひも付きイチゴあめ、隣の子が食べている「氷棒アイス」(チューペットとかの類)も全くダメ。宗教関係なく、「普通の子ができること」を禁止されていた上に、宗教も加わって「あれもダメこれもダメ」で完全に縛られ、母の顔色をうかがい、母の言う通りに行動するようになりました。

宗教の関係で、母は私の「思考」「感情」まで支配しようとしてきました。

怒ったり自分の思いを外に出そうとすると、「ダメ!」(あいよろこびへいわ、がなんでできないの!〇〇ちゃんはちゃんとできているのに)

小1のピアノの発表会で、ピンクのドレスが着たかったのに、母の手製の黒一色のワンピースを着せられて。「ピンクがいい、黒は嫌」ということさえ「わがまま言うな、我が強い」と否定されました。当然、テンション低すぎて集合写真でブスっとした表情で写ってしまいましたが、その写真にも「なんでこんな顔で写ってるの!〇〇ちゃんはこんなにニコニコして写ってるのに!」とダメだし。心の中では「〇〇ちゃんはかわいいドレス着てるじゃん」と思っても、口に出すことはできません。「口ごたえしない」と母にさらに叱られるのは目に見えていますから。

それに宗教が加わるともう最強です。恋愛も禁止(特にこの世の人には絶対だめ)とのことで、中学2年ころまで、母は私が学校に行っている間に机のカギを開けて勝手に日記や手紙を読んでいたようです。私は信仰心薄かったので、普通に学校に好きな男子がいましたし、それをこの世の友達と話していました。ごく普通ですよね?クラスの友達と好きな男の子の話とかするのって。でも、それを母は「子供にはまだ早い、恋とかそういうのはしなくていい」とか言って私の心も監視しようとしていました。実際には、監視されたところで、「母に言われたので好きな子のことを今日から好きでなくなりました」とかなりません。

親だからといって、子供の感情や思考まで支配できるはずはないのですが、それがわかっていなかったようです。母の性格ゆえなのか、宗教のせいなのかはわかりませんが。

このような生い立ちなので、いまだに「本当の自分って何だろう」と茫然としているところがあります。禁止する人も教義もなく、「ありのままで生きよう」と世の中からもメッセージが発信されているこの今でも、自分のありのままって何なのかがつかめないように感じています。

もしかすると、「自分が思うこと、感じることはうまくいかない(禁止される、否定される、つぶされる)」という固定概念が潜在意識的な深いところにあるのかもしれません。

そして、「自分の意志とは関係なく、自己犠牲で人や世の中に尽くすことで、ようやく世の中に認められる、居場所がもらえる」という固定概念も潜在意識にあるのかもしれません。喜んで貧乏くじを引きましょう、というか、貧乏くじ請負人だと自分を定義づけているのかもしれません(かなり病的・・・)。

宗教など関係なく、普通に育ってきた人でも「本当の自分がわかっています」と自信満々に言える方は少ないのだとは思いますが・・・

何も感じないのが本当の自分なのか、ひたすら我慢するのが本当の自分なのか、そんなはずはない、そうでありたくない、と思っているはずなのに、「自由に感じる自分」「人目を気にせず何も我慢しない自分(もちろん常識の範囲内で)」の姿が、いまいちピンときていません。

私の心の問題は、私にしか解決できないのでしょうが、似たような生い立ちの元JWさんたちはどうしているんだろう・・・

もし自由になれて本来の自分の姿で生きていられる実感を持っている方がいるとしたら、どうやってその道にたどり着いたのだろう・・・

それが知りたくて、こんなところにこんなアウトプットをしています。

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