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人生の重荷リリース⑪:母が宗教に入って生きづらくなった子供の話

信仰心薄めの元JW2世が恐れたもの

信仰心薄めだった私は、ハルマゲドンも楽園もそれほど信じていませんでした。グリム童話やイソップ童話と同等のレベルでお話を受け取っていたように思います。

多くのJW2世さんは、「ハルマゲドンが怖かった」と当時を振り返っていらっしゃいますが、私が一番恐れたのは別のものでした。

JWの活動の虚しさ、自分の「今」の虚しさ

何歳かは正確に覚えていませんが、「幸福な王子」(オスカー・ワイルド)をアニメで見て、心が闇落ちしたことが今でも忘れられません。自己犠牲の虚しさ、報われなさ・・・ 後味が悪く、数日は暗い気持ちを引きずりました。

それほど落ち込むということは、「まったく起こりえない、ただのおとぎ話」ではなく「フィクションではあるけれど、人の心の在り様はリアルだ」と感じたということです。「幸福な王子の像はないけれど、こういう心ない人は今もいる」と。

JWの教えを信じ込んでいた母からは、自己犠牲が美徳であり、そう生きていくのだと教えこまれていました。

おそらく、自分を燕に投影したのでしょう。

王子は「持てる者が持たざる者に施す」という立場ですが、燕は「何も持たないちっぽけな存在が、無償の労働力を提供することで自己犠牲の徳を積む」立場です。子供ながらに、自分は燕だと思ったわけです。

JWは、自発奉仕がメインです。伝道も無償の労働力を協会に提供する行為です。「立派な」兄弟姉妹たち、立派なJWは自己犠牲によりJWに仕えるのです。

楽園伝説を吹き込まれていた当時は、自己犠牲はいつか報われるものだと暗に思っていたのですが、幸福な王子は王子も燕も報われません。それどころか、心なき人々にひどい扱い(ゴミ扱い)を受けるのです。

JWの虚しさを感じるとともに、JW2世として毎回集会に連れ出される自分の人生に言いようのない不快感と虚無感を感じたのでした。

その後、「ナイチンゲールとばらの花」を読みましたが、読後は絶望のどん底です。メンタルは奈落の底に。

ナイチンゲールが痛々しすぎて悲しすぎ。でも自分はJW的にナイチンゲール的生き方を強要されているように感じたのです。

そして、命がけで捧げた赤いバラも、「こんなのイラネ!」とあっさりポイ捨てされてしまうという理不尽さ。

多分、バラを受け取ってポイ捨てするタイプの人間は、この小説を読んだところでそこまで落ち込まないでしょう。「フーン」とか「暗い話ね」とか「自己犠牲で贈り物とか重いんだよっ」とか様々だと思います。

世の中には、どれだけ真心を込めて尽くしてもあっさりと踏みにじられることがあるんだ、、、というのがとても悲しくてやるせない気持ちになりました。

いい大人になった今ならば、本当に愛して自分が「やりたい」と本心で思ってとった行動が自己犠牲になったのならば、どんな結果であれ、自分は幸せなのだと思います。あくまでも「心から」「本当にそうしたい」「そうせずにいられない」と思ったのなら。どれだけ無下に扱われようが、相手に拒否されようが、本望を遂げた時点でもう「幸せ」でしょう。それが無償の愛なのでしょう。

が、私はJW活動をやりたいと思っておらず、それでも「愛よろこび平和辛抱強さ親切・・・」と英単語を丸暗記するかのごとく反復学習させられ、本望でないのに「JWに喜んで仕える」(喜び組か?!)ことを母に求められていたのでね。「自己犠牲とは我慢(本心を押し殺しての)」という理解でした。

信仰心薄かったとはいえ、幼少期から「神」だの「愛」だの「右の頬をぶたれたら左の頬も差し出しなさい(左右逆だっけ?)」だの吹き込まれて育ったので、「人の心」に敏感に反応し、悲しさや虚しさについて考える、そんな子供でした。


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