見出し画像

この世界の幸せは資本主義

この前後輩の女の子とご飯にいった。
私を慕ってくれる女の子は何人かいて、みんな大好きです!といってくれる。


彼女たちにはいくつか共通点がある。
とても頑張り屋でとても優秀なのに、自尊心がひくいこと。
そして家庭関係が複雑なことだ。


私はありがたいことに、今までいろんな人とかかわらせてもらう人生だった。
だから、まったくトラブルがない家庭に育った友人もいる。
いつも夫婦仲良くてけんかしたことさえいい思い出になり、家族が素で話しあえてお互いゆずりあうことができる。
思いやりと愛と安心と信頼にあふれている。
何世代も何人も仲良くつながっている。
そんな子たちと接するといつもまぶしく、こころもあたたかくなった。


そんな人もいればそうではない人もいる。
この世界には本当にいろんな人がいる。


私を好いてくれる子たちはみんなささやかな幸せに憧れている。
豊かではあるけど、パリピではない。
身の上ばなしを聞くと「そんなことを抱えていたの?」と思うようなことをひとりで抱えていたりする。
自分のことだけでなく、まわりのぶんも抱えようと必死で努力するすがたは知っている私からすると胸がきりきり痛む。
もうそんな苦労をしてほしくないと思ってしまう。


彼女たちは人に頼れない。
人にSOSを出せず、ありのままで愛されると思えないから常に「なにか」をしようとする。
それが楽しい時もあればそうでないときもある。
なにもしないことが想像できない。
ただ自分らしくある、自分の幸せを追求するということが毎日からかけてしまっている。

それはまさに過去の私だ。
親のため、まわりのため。
自分はあとまわしで生きて自分を生きづらくしていたのは自分自身だった。
でもだれかがいなければ生きていけない人なんて、おさないころの自分の子供だけだ。
だれかの親も友人も知人もパートナーだって、ものごころついた人たちが幸せに満ちて生きるかどうかは、もはや彼ら自身の責任だ。


この世界の自立した人たちはお互いが「幸せの資本主義」のもとに生きている。
幸せはみんなに同じようなものが同じように配給されるわけではない。
幸せは自分がのぞみもとめて手にするものだ。


だから「私たちは生まれたときから常に自分の幸せを最優先に生きるためにいる」と、こころから理解することが必要だ。
ひとりひとりの幸せを求めて生きる権利のかぎり、自由に幸せになっていけるのがこの世界なのだ。

私はだんだんと自由になってきた。
そのすがたを後輩の子たちはよりいっそう応援し、しるべにしている。
今そう感じている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?