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【#有益な言語化】脳内言語のわずか30分の1の発言はその人の思考の性質をモロに表している

 Twitterで情報収集している人の言うことは何の根拠もないので辞めましょう(・∀・)

 皆さんこんにちは。にゃむです。日頃からこのnoteでネガティブ一色の投稿をしている人の記事は読むだけ時間の無駄なので辞めましょう!でも、そういう投稿をしたい人は基本的に「共感」を得たい場合が多いので、するのは本人の自由です!えへっ♬

 基本的にネガティブな内容の発信をしている人は、それに対してポジティブなコメントをしてくれる人を敵視する場合があったり、気分を害すこともあるので、ネガティブな投稿には前向きなコメントをするのは控えましょう!「お前に何がわかるんだ!」って言われるのがオチなので!えへっ♬

 どうしてネガティブ投稿をここまで酷評するのかには、極めて信ぴょう性の高い根拠があるからでありますっ!

 皆さん、「インナーワード」ってご存じでしょうか?普段、人が誰かと話している時に、相手の話に相槌を打ったり、言葉を返したりして、傍から見れば一見普通な会話に見えたり、自身もそういう会話をしたりしますね?

 自分の口から出る言葉、相手の口から出る言葉、つまり、音や文字として言語化された全てのワードは、本人が脳内思考に巡らせている言葉のわずか30分の1の単語量でしかないんです。

 逆を言うと、発言した言葉の30倍のワードが脳内を駆け巡っているということです。

 これ、どういうことか分かります?普段からネガティブな発言、愚痴やら文句を垂れ流している人というのは、その30倍のネガティブワードが脳内を駆け巡っているということです。

 ということは、例えばですね、このnoteにネガティブ一色のワード5000文字の記事を書いている人は、そのおよそ30倍ですから、脳内では15万ものネガティブ関連ワードが駆け巡っている状態で言語化しているということになります。どんだけーって話です。

 さらに、それほどネガティブに染まった記事を読む方々はどうなるかというと、わざわざ脳内に外からネガティブワードをインプットしてしまうことになりますから、アウトプットする時の単語数に比べてインナーワードの倍率は30倍なので、読み手側の脳内を加速的にネガティブに染めていくのです。

 この場合、共感してコメントを返そうが、批判的にコメントを返そうが、こういうネガティブな記事を読んだ人たちはもれなく脳内のインナーワードをネガティブ汚染されます。

 投稿者には責任はないですし、ネガティブな発信物を読むも読まないも読み手側の選択次第ですから、誰が悪いということではなく、あくまでも問題なのは選択するかしないかという一点のみなのです。

 陰キャで根暗でメンヘラな人たちだって発信する自由、表現する自由はあります。繋がるのなら同類が良いですよね、精神衛生上。ただ、どういうわけか、こういうタイプの人たちは、異類ユーザーへも理解してもらいたいとアピールする傾向があります。ボクが敬遠する理由はこれですね。

 被害者根性全開の、弱者面全開の、悲劇のヒロインぶってる投稿物には微塵にも興味がないし、自分のためにはならないと思うので、ボクは「読まないという選択」をします。批判はしませんし、否定もしませんけれども、単純にお互いにご縁のないタイプのユーザーということです。

 言語化って、実際のところ、万人受けするものが必ずしも素晴らしいものだとも限らないんですよね。ベストセラーの書籍が誰にでも感銘を与えるものとも限りません。ただ、ボクは、人気の理由を知るために読んでみることはありますし、その結果、個人的評価はやはりピンキリです。

 言語化されたものには大別して3つの性質があるように思います。一つは、「自己顕示欲や承認欲求を満たしたいが故の言語化」と「何かしら有益な情報や知識を提供するための言語化」、そして「読み手の思考を刺激し、考えさせてくれるような言語化」です。

 前に、とあるユーザーさんがこんなコメントをしてくれました。「にゃむさんの記事には敵がいない」と。これ、なんでだかわかりますか?理由をしればとてもズルい手法だと揶揄されるかもしれませんが、一番意識していることとしては、特定の人物について書く時でも「複数の立ち位置から同じ出来事を捉えること」です。

 「こういう考え方もあれば、こういう考え方もあるでしょう。個人的にはこう考えています。ただ、否定も批判もしませんけどね?」みたいな書き方です。

 「○○なタイプの人はこういう傾向にあります。こういう人って結構多いと思いますけれども、ボクはこう思います。」といったように、主語を敢えてバカデカくして、社会現象的な物事、流行、人間の特性などを複数方向からキャッチすることで、文章が立体的に表現されるようになります。

 すると、読み手は、誰かだけを責めたり、誰かだけを批判するような攻撃的な文面ではないと「錯覚する」こともあるかもしれません。しかし、個人的な意見・感想・持論などはしっかりと文面に記載しています。

 なぜ読み手が「敵がいない文章表現だ」と思うのかは、読み手はいろんな捉え方をするものだというのが大前提にあるからです。というのも、これを無視して、偏った表現で誰かだけを批判したり、賛否あるような物事に対してどちらかだけの立場で言語化をしてしまうと、必ず敵を生むからです。

 他のnoteユーザーさんの文章を読む時に読み手として意識していることは、その人の思考の言語化で抜け落ちているポジションの観点がないかを気にすることです。

 偏っている文章か否かで、その人の視野の広さがすぐにわかります。結果、その人の文章が「敵を生む性質の文章」かどうかを判別できます。

 元々、○○イズム、○○主義、〇〇派みたいなステータスを語る人たちの文章は、これも一つの傾向ではあるかもしれませんが「知性」を感じさせない文面である場合が多いです。

 そういうステータスを語ることで、「自分の思考は偏ってます!えへっ♬」って言ってるのと同じことなんですよね。こういう人たちの発信物は必ず敵を生み、不毛な言い争いを延々と繰り返します。個人的には敵を生むとわかっていて偏った言語化をする人たちには魅力を感じません。

 例えば、善悪の話になった時に、善人ぶって良いことしか言わず、悪は悪だとただ断罪することが正しいみたいに言う人たちのことは、鼻で笑ってポイします。こういう偽善者みたいな人たちに、罪を犯した人たちの心情は到底理解するには至らないからです。そもそも理解する気もなくただ袋叩きにすることで気持ち良くなるんでしょうけれどね?

 鬼滅の刃、進撃の巨人、約束のネバーランド、ドラゴンボール、BLEACH、スラムダンク、るろうに剣心、呪術廻戦、などなど、週刊少年ジャンプ系のアニメの特徴として、かつては敵同士で戦った者同士が、別の共通の目的のために共闘するというストーリーが描かれているケースが多々見受けられます。

 鬼滅の刃では主人公の炭治郎が鬼の苦しみに涙したり、約束のネバーランドでは主人公のエマが鬼を助けたいと奔走したり、進撃の巨人では巨人は元は人間だったのだと気付いてから、アルミンは他国との平和の道を探ろうとしたり、と。

 どうして愚痴や不満を垂れ流すことが脳内思考に悪影響を及ぼすのかは、「自分のことしか考えていない」ことと、「相手の事情や思いを無視している」ことで、思考がどんどんネガティブな方向へ偏っていき、言い争いにでもなれば「自分たちは悪くない」「悪いのはあっちだ」と互いに言い張る始末に陥ります。

 そういう時に、互いにとって共通の解決点となるイーブンな落としどころや共通の目的がないかを話し合えるようになればまだ議論する価値はあるかもしれませんけれどね?

 自責一色というのもボクは間違っていると思うんだよね。ただ自分のせいだと自分を責めれば相手がそれ以上は責めてこない、攻撃して来なくなるというのでは、何も話は進まなくなります。

 意見の相違はあって当たり前だし、価値観が違ったり経験が違ったりするのも当然のこと。文化や習慣・慣習の衝突は必ず摩擦を生みます。その時こそ、どういう流れで互いの意見を交換すればいいのかといった交渉の手段は持っておくに超したことはないでしょうね。

 相手の言いなりになるのは違うし、相手を脅迫して従わせるのも違いますよね?

 視野が狭いと、暴力で相手を服従させようとするしかないと思い込む人だっているわけです。

 詰まるところ、インナーワードの性質を良くするには、普段からどういう情報や知識に触れ、どういう性質の思考を持った人と言葉を交わしているかがインプットの性質・精度を決めるのです。

 インプットの倍以上のアウトプットが必要だと言われるのは、アウトプットされる言語の30倍ものインナーワードから選択して文章化する必要があるからであって、習慣的にやっていないと、1000文字ですら文章を書くのが苦痛だと感じるほど、本来アウトプットは非常に複雑な作業なのです。

 それを、普段の会話や投稿なんかで、何も考えずにテキトーに感情任せに愚痴や不満を垂れ流していると、当然、文章だって普段のネガティブ思考から言語化されるので、誰かにとって有益な文章を書けるはずがないのです。

 なんだったら、ネガティブな文章とポジティブな文章の双方を書けるほうがいいかもしれません。とにかく、主観でしか、感情でしか文章を書けないのであれば、知性を養い、インナーワードの精度を上げるためのインプット習慣を持つ必要があるでしょうね。

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