無題

頑張り方を間違えると期待値よりも低い結果に至るのは当たり前だよね?

 皆さんこんばんは、にゃむですよ?(・∀・)ノ

 今回はですね、「頑張る」という言葉についてフォーカスしたいと思います。まず意味を見てみましょう。

 「自分は今、何のために頑張っているのだろうか」と考える人たちは多いかもしれませんが、こんなふうに考える人たちは極めて少ないと思います。

 誰しも、自分が何かのために頑張っている時、「自分は頑張っている」と思いたいのが通常の心理的な思考だと考えられますが、同時に、頑張り方そのものが正しいか間違いか、もしくは、不足はないか、的を外れていないか、本質を見失っていないか、などという疑念を抱くことを疎かにする人たちも非常に多いのが現実のように思います。

 事、この日本の学校教育においては、暗記と思考の比率が7:3という絶望的な割合であることがこの10年ほど囁かれ続けているにもかかわらず、その比率を真逆にすればクリエイティビティが重んじられ、新しい何かを生み出す習慣が根付いていくとも言われています。

 誰かのマネをし続けることは、頑張るうちに入りません。あくまでもそれは「参考」であり、その域を超えることはありません。もちろん、仕事における基本や基礎に忠実であろうとすることは非常に大事なことかもしれませんが、いつまでもそれでいては、応用を利かせられないまま時間だけが残酷に過ぎて行きます。頑張っていると思い込んでいることが、結果的に何も生み出すことのない単なる時間の浪費でしかなくなることもあるんだよということが、頑張るという言葉の解釈には含まれているように思います。

 これはあくまでもボク自身の捉え方であって、正しいと言いたいわけではありません。感情は押し殺したり切り離したりすることは可能ですが、人は言葉を切り離すことはできません。なぜなら、考える時は頭の中を言葉が駆け巡っていますし、過去や現在、そして未来に対しても必ず言葉が絡んできます。よくPDCAサイクルという言葉を見聞きしますが、これにも当然言葉が絡んできます。

 つまり、大前提である言葉の精度が低ければ、その先の思考や行動も同じく精度の低いものにしかならないということはおおよそ想像がつくと思います。

 「じゃあ、どうすればいいのさ!」と感情的になる必要など全くありません。ただ、自分の時間を読書に投じたり、本だけではなく、ドラマ、映画、アニメなど様々な物語を観た後にレビューとか感想文を書いてみたり、感想を他の誰かに話してみたりすることも、言葉の精度を上げる良い機会となるはずです。

 人間は、どんなに素晴らしい知識や道具や仕組みがあったとしても、それらを最大限に活かせるくらいの語彙力や表現力がなければ、宝の持ち腐れというもので、その状態で頑張っていると思い込んだまま頑張り続けたとしても、実際の期待値を超えることなどできないわけです。

 それで言うと、「資格」にも共通して言えるかもしれませんね?ボクは大学時代にTOEIC公開テストで600を超えましたが、それも10年以上放置すれば何の役にも立たなくなります。英語を使う機会を自分で見つけられなかったこと、そしてそれを言い訳に勉強しなくなったことで、かつては高いスキルだった英語も日常会話程度のレベルにまで落ち込んでしまったのです。

 取得した資格とそれをどれほど発揮したかは等価ではないということです。資格を活かせる場に恵まれたのであれば、結果が資格の価値を上回ることもあるかもしれませんが、今となっては人工知能が台頭してきたことにより、かつては重宝した資格も何の価値も持たなくなってしまう時代。

 でも、こうも捉えることができるのです。資格を取得するまでの頑張りは、他で転用させることができるということです。頑張るという言葉の本質的な意味合いは、専門性ではなく、汎用性のほうを重視すべきなのかもしれない、ボクはそう思うようになったのです。

 つまり何が言いたいかというと、「過去の頑張りに多様性を持たせて発揮することができる」というのが、「頑張る」の本質的な意味じゃないかなぁと思うのです。

 冒頭で示した「頑張るの意味」は、どちらかというと精神論に偏り過ぎているような気がしてならないのです。1つのことを極めて専門性を深めていくことは人間にしかできないことだと思いますが、一方では、1つのことを極めてそれを別の複数のことで多様的に活かすことができるのも人間にしかできないことではないかと思うわけです。

 耐えるばかりが頑張るということではない、そういう気付きを得ることのできる人たちが、自分で考え、自分の意思で行動を選択し、実行することができるのだと定義することもできなくはないように思います。マルチタレントとして活躍している有名人がまさにそれに該当します。お笑い芸人として活躍していたかと思うと、絵本作家だったり映画監督だったり小説や映画やドラマの脚本家だったりといった能力も同時に持ち合わせていたりしますね?

 非常にカッコいい仕事人生ではないかなと思います。とある会社に属していながら自ら起業し社長業をこなしていたりする人の存在も最近では珍しくありません。会社の外に全く別の分野におけるポジションを複数持っている人は、忙しいかもしれませんが毎日充実しているのかもしれませんね?つまり、1つのことに長けていることが評価の対象になるという古い考え方は今後益々リスクになっていくのではないかという懸念は常に持っていないといけなくなるのです。

 専門性はそれほど高くなくても、いくつかのことが一般レベル以上できるというセンスのある人は、きっと頼られる存在になるのでしょうね。ということは、「自分の口から自分は頑張った」と公言することには何の意味もないのだということです。評価する側はいつも頑張りの具体性が知りたいのです。誰よりも頑張っていると自負しているような人たちは、相応に結果も付いてきているでしょうし、自分の口からそんな言葉を発することはありません。

 ただし、身体や精神が追い付かないくらい頑張っているのなら、結果どうこうに関わらず、ボクはそういう人の頑張りは素直に認めて学びたいと思います。

 言葉の意味って本当に面白いですね。辞書の意味すら疑念を以ってじっくり読み取るほうが勉強になりますしね。

 明日も一日、頑張りましょうwwww

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