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【#人生哲学】出産を「親のエゴ」と言う理屈は正論か

 ドフトエフスキーは、人生は苦痛と恐怖しかないものだと提唱している。

 ボクの持論としてまず結論を言うとですね、いつどの時代においても、人々が遭遇する苦痛や恐怖は必ず存在していて、時代が流れていくにつれそれらの性質が変化してきたというだけであって、出産に限らず、人が何を選択して生きていくかということ。

 それでも、「子に不幸な思いをさせないために子供を産むべきではない」という反出生主義者の論理には、一部理解ができる。というのも、ボク自身も、子を持つことには少なからず抵抗があるからで、その理由は時世が如実にそれを示しているため言わずとも伝わること、それくらい現代において子を授かるということは、過去の歴史のどの時代にも該当しない、全く新しい未知の苦痛や恐怖、不安が待ち構えていると考えるからに外ならない。

 とはいえ、自分と同じような苦痛を与えたくないことを理由に子供は産むべきではないと外に向けて発信するのもなんか違う気がする。

 冒頭でも述べた通り、「人が何を選択して生きていくか」に尽きるからだ。

 「自分が生まれた国、生まれた家庭によって、生まれたその瞬間に人によって幸福度に差が生じる。」という大前提があることを踏まえて考えると、あの国のあの家庭に生まれた子は幸せな人生を生きられるけれども、あの国のあの家庭に生まれた子は不幸な人生を強いられることになる、というようなことは当然のことだと認識されがち。

 例えば、反社の家庭に生まれた子供たちは反社の子。前科者の子は「前科者の子」。生まれてみたらあらビックリ・・・では済まされないような人生を生まれた瞬間から強いられる人たちもこの世の中には大勢存在する。

 だから、人は子を作るべきではない?だから、人は人口を減らして自然消滅させるべき?それは、人が苦痛や恐怖を避けるための最良の手段・・・だと??

 進撃の巨人の安楽死計画を連想してしまう。「壁の外には海があって、海の向こうには敵がいて、全ての敵を駆逐すれば自由を手に入れられる。」というのが主人公のエレンの考え方。そして、エルディア人から始祖の巨人を奪還するためにジークが奔走する。

 ジークが考案する安楽死計画とは、9つの巨人を有する人間が死ぬと、新しく生まれる子供に9つの巨人が宿るため、巨人に恐怖したり大切な人たちの命を奪われたりすることを阻止するためには、「人が子を産めないようにしてしまえば9つの巨人は消滅する。それでもう人が巨人に支配されることはなくなる。」というもの。

 反出生主義者の言っていることはジークの安楽死計画そのもの。

 でも、正論ではない。地球上に生命が誕生し進化した結果、人類が子々孫々紡いで現代に至っている。

 もし、今生きている人たちが、国の法改正により「子を産むことは犯罪」として規制されることになれば、それには従わざるを得なくなるだろう。

 でも、そういうことには絶対にならない。なぜなら、現代を生きる人たちだけにそのような決定をする権利は、生命倫理上存在しないから。

 産む権利がある以上、これを規制することはもはや不可能。

 つまりね、社会って貧富なんかに格差が生じやすくて、法治国家でありながらも犯罪はなくならない。ここ最近毎日のように「わいせつ」「強制性交」「児童ポルノ」みたいなワードがネット記事に並んでるけど、ネット記事だけ見ていると、日本という国はなんと気持ち悪い国だろうと思えてくる。

 犯罪は犯罪だけれども、社会は、人が生きる上で遭遇する可能性のある不幸を元々潜在するものであって、いつ誰がどのような不幸に遭遇するかが予見できない不確実性に満ちたものでもある。

 生きているうちに少しでもいい思いをするために、快楽を得るために、我欲に突っ走って生きれば満足かというと決してそうではないし、日々辛い思いをしたり苦しい状況に立たされたりすることがあっても、酒が飲めるだけでリフレッシュできる人もいるわけで・・・。

 進撃の巨人でミカサ・アッカーマンが言っていたね。「この世界は残酷だ」って。

 もし、生命誕生が罪だと言うのなら、誰がその責任を負うべきなのかな??(・∀・)あはっ♬

 つまり、議論するだけ無駄だとしか言えない。ただ、考え方としては一部理解はできる。

 反出生主義者の言い分として、今生きている人たちが全員死ねばいいという論理ではなくて、あくまでも、今後子供を産むべきではないという思想ね。で、そのまま自然消滅すべきだ、と。かなり主観的だけどね。わからなくはない。

 この世に生まれなければ何も感じることがないのだからね?でも、生まれたことで得るばかりではなく、失いながら人は生きている。人生は消耗戦であり、誰もがすべからくこの世を去る。

 つまり、人生という過程において経験する如何なる苦痛も恐怖も避けるためには子を産まなきゃいいじゃん?っていうのが反出生主義者の理屈。でも、ボクはこれを正論だとは思わない。

 だって、「生まれてきて良かった」「この日のために生まれてきたんだ」って思っている人たちもたくさんいるから。

 社会的悪影響なんて一言で言うのは簡単だけど、その具体的な悪影響って何よって問えば、無数にあるじゃん??それを列挙しようものなら大変なことになる。

 親から、「お前の人生は偽物の人生だ」なんて言われたことのある人がどれくらいいるかはわからないけれども、この世界を知るために、1つの道を選択して生きるという窮屈さにはボクには耐えられないと思ったから、今までずっと仕事を転々としてきた。

 何者かにならなければならないのが人生だ、そういう生き方こそ本物の人生だ、というのがボクの親の論理みたいだけど、なんだそりゃって毎度聞いていて思ったよ。

 昔から、人も環境も出来事も、すごく遠くから眺めていたような気がする。もちろんそこには自分の姿もあるわけだけど、学校とか習い事とか仕事とか、どこで何をやっている時でも、「体験」でしかなかった。良いことも悪いことも全て体験。

 苦痛や恐怖を避けるために子を産むなという理屈は、それらを100%避けて生きることは不可能であることを認めてはいるものの、耐えたり乗り越えたり、時にはネタにして笑い飛ばしたりすることもできなくはないのに、その部分は考えないのよね、反出生主義者の論理では。

 何度も言うように、一部は理解できるけれども決して正論ではないのよね。かなり偏った考え方だからね、〇〇主義者の言うことは。

 何を選択するかで人の人生における幸福度は上がりも下がりもする。それら全てを一括りにして苦痛と恐怖を避けるために子を産むなというのは、主観がすごいのよ、本当に。

 望まれずに生まれた子もいるでしょうよ。捨てられる子もいるでしょうよ。虐待に苦しむ子もいるでしょうよ。でも、そういう辛い経験をしている人たちほど、生きていることで体験できる幸福や快感に遭遇して欲しいって思う。

 生きていて良かった、あの時死ななくて良かった、そう思える瞬間があるかないかで人生の色はまた変わってくるんじゃないかな。

 それをさ、後世に辛い思いをさせないために出生を反対するというのは、何の権利もない主張でしかない。強いて言えば表現の自由くらいかな??外向けに発信するんじゃなくて、そう思ってるだけで良くないか?って気もしなくはない。

 正解のない、答えのない、そういう議論は不毛な争いをするための時間しか生まない。

 この世界は正常だ、世界は正常であるべきだ、などと思っているうちは、ちょっとしたことに批判したくなるんだろうなぁ。んで、正常な世界って何?平和な世界?平等な世界?それを噛み砕いて論理を組み立てていくと、必ず矛盾が生じてくるから、やってみるといい。

 ビーガン論争みたいなことになるから。

 自分が考え方が正常だと思っているからこそ、偏った考え方に陥りやすくなる。もちろん、いろんな考え方が合っていいとは思うけれども、他人の選択肢を増やしたり減らしたりする権利はどんな〇〇主義者にもないわけで・・・。

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