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◆全ては繋がっているのかもしれないね

 どうもね、そう思えてならないのよ。シワのない1枚の紙も、握りつぶして開くとさ、シワだらけになるでしょ。そのシワのある状態が本来の姿で、孤立したシワは存在しないはずなんだよね。(何言ってるのかわからないよねw)

 ガラス窓に石を投げてヒビが入るとする。石が当たった部分を中心に四方八方にヒビ割れが広がるけども、間を開けて別のところにヒビがはいることなんてないよね。(まだわからないw)

 木の幹から枝があちこちに伸びて、枝からもさらに枝分かれして伸びていく。じゃあ木の根っこはどうか。同じく大地から栄養を吸い上げるために広がりを見せていく。一本の木の枝も根っこも、その木から孤立して枝や根っこが伸びていくことはあり得ないよね。

 人の体内に張り巡らされている血管はどうか。これも同じく全て繋がっている。心臓から送られていく血液が届かない孤立した血管なんてないよね。

 シワ、ひび割れ、血管、植物の養分の通り道、もっと言うと、山から海に向かって流れていく川なんかも繋がっている。

 木で例えるほうがわかりやすいと思うんだけど、人間に限らず、全ての生命はリンゴやミカンなんかの果樹で言うところの果実と同じなのではないかなと思うんだ。

 果実って実ってからも放置してると大地に落ちるでしょ。で、種が発芽して大地に芽吹いて新たな幹が成長してまた実るよね。

 種の絶滅っていうのは、この大自然から切り離された瞬間から絶滅に向かうんだと思うんだ。

 人類が今も存在しているのは、子々孫々受け継がれ続けた結果であって、これを遡れば、極端な話、最初の人類、アダムとイブから始まったのだと。その全体図はまさに何億何兆回も枝分かれして誕生を繰り返した人類史なんじゃないのかね。

 あらゆる組織形態の中で孤立をするということは、共有するはずの全てのことを共有できない状態に陥ることに等しく、学校だろうと会社だろうと友達だろうと家族だろうと、一つところで孤立をするということは「死を待つ状態」と同義であると考えられる。

 どうかな、伝わってるかな。

 何が言いたいかっていうとだね、自分の一部分だけを否定することがどれほど無意味なことかってことを言いたいのよ。今の自分はその全てをひっくるめて自分でしょ?自分の性格が嫌い、自分の容姿が嫌い、身長が低いことが嫌い、太ってることが嫌い、二重じゃないのが嫌い、足が短いのが嫌いなどなど、そんなことで自分の一部分を否定的に捉えることに何の意味があるんだろうかって話。

 自分以外の誰かからデブだの顔が怖いだの性格が悪いだのなんだのといろいろ言われて落ち込んでる人は少なくないんだろうけど、そうやって悪口みたいなことを言う人たちが悪いの?オレはそうは思わないね。

 見たまんま、感じたまんまを言うのが他人でしょ。あとはさ、自分の実態を自分が否定するってことの意味がどういうことなのかを考えたらいいんじゃないの?オレから言わせれば、いくら自分の一部分を否定しようと繋がっていて、全てをひっくるめて自分の実態なんだから、否定したって意味がないと思うんだよ。自分の特徴だってすべて繋がっていて自分なんだから。

 人間社会で問題視されている差別なんてさ、言い方を変えれば「違いがある」ってだけのことで、本来批判したり卑下したりしても何の意味もないもので、違うことが大前提の物に対して人間だけがこれを差別だと問題視している。差別する側は悪で、差別される側はかわいそう、そういう図式が無数の差別の上に成り立っている。

 さっきも言ったとおり、組織の中で孤立をするということは死を待つ状態。つまりね、違いを受け容れられずに差別する側に立った時点で、相手に対して「死を望む側」に立ったのと変わらないと思うんだよね。

 差別感情というのは、殺意と同義ってことよ。人間を軽んじても良いことないぞ。かといって、敬えとか感謝しろとかって他人に言うのも違う。ただ人と人のあらゆる違いを認めればいいんじゃねーの?って思うんだがな。

 これがなかなかわからんのが人間なんよな。

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