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【#思考の言語化】現実との向き合い方がわからなくなった現代人

🔶想定可能な未来と想定外の未来

 現在起きていることを直視すると、誰もが疲労を感じるほどのコロナ禍が目の前に広がっている。事の詳細は言うに及ばないほど、黙っていても情報として飛び込んでくる。

 8月20日23時現在までで第5波新規感染者数は20万8000人を超えた。第4波ピーク7万8612人のおよそ3倍。これが減少傾向に向かい始めたとして、どれだけの日数で底を打つかもわからなくなってきた状況。

 5万人を下回る日がやってくるのか否かも見えなくなってきた。間違いなく言えることは、第5波の感染拡大により推定最小感染者数は底上げされたということ。

 現在、デルタ株の感染比率が急激に高まってはいるものの、この次に感染拡大が懸念されるラムダ株は、感染後の体内滞留時間が長いという特徴と、ワクチン接種者へのブレイクスルー感染という2つの特徴を合わせ持つ。

 第1波から第5波の経過を振り返る限り、増加から減少までの期間が単純に長期化していることを踏まえると、今後やってくるであろう第6波以降は、2つ、もしくは3つの波が前後で重なるような形で波を打つようになっていくことが懸念材料として浮上してくる。

 第5波現象過程での第6波増加への移行。そして後に、2つまたは3つの波が融合し、途轍もない大波として本格的なパンデミックが引き起こされるような状況を、今のところようやく危惧し始めたといったところか。

 ここで、こうした未来をコロナ禍が始まった当初に想定していたか否かで、現在の状況の捉え方もかなり違っていたに違いない。しかし今の状況でさえも、都市のロックダウンや全国緊急事態宣言に対して尻込みしている。

 本当に宣言やロックダウンの目的や意味を理解しているのかというと、実に怪しいところ。

 他人事のように考えている人は少ないかもしれないが、どうも、コロナ関連以外のあらゆる「他者の不幸」に対しては、捉え方が別のものになっているように見受けられる。

 例えば、メンタリストDaigoさんの炎上騒動、雨上がり決死隊の解散騒動、名古屋市長のメダルかじりなどなど。事ここに至れりで、一斉に取り囲んで叩きまくる様子は、見ていて疲れてくる。毎度お馴染みの炎上騒動。

 そんなことをしている場合でもないはずだろうに。本当は煮えたぎったお湯に浸かっているのに、そのことに気付かずにぬるま湯に浸かっているつもりでいる。

 こんなご時世でさえ、他人の不幸という蜜に群がる人間という虫は、きっと現実との向き合い方がわからなくなりつつあるのではないか。

 おそらく、その先の悲惨な未来については、思考が行き届いていないのだろう。一日の新規感染者数が倍増する時期が到来するとして、それでも他人の不幸という蜜に群がるようなら、本当に社会はあらゆる分野で崩壊を見せるだろう。

 3密3密って今でも得意げに小池百合子さんが言ってますけれども、密じゃなくて甘いほうの蜜とでも勘違いしてしまっているのではないか。ここぞとばかりに叩きまくる人間たちの姿は、もはや感情で動く動物のように見える。

 いや、あり得ないかもしれないけれども、新型コロナウィルスのヒトヒト感染だけではなく、ヒト動物感染って今のところ確認されてないよね。これが起きたらもう止められないし、変異スピードも加速するんじゃなかろうかとかいうことを想像してしまう。

🔷物語で描かれる「登場人物に降りかかる不幸」に多くの人たちが魅了されるのはなぜなのか

 いや、あのね?これもなんとなくボク自身が感じていることで、疑問に思うことなんだけど、映画・ドラマ・人気アニメの人気の理由ってそれは当然作品によっても異なると思うんだけど、共通項の一つに「キャラクターの不幸」は確実に含まれてると思うんだよね。

 そのことを、人気爆発した「鬼滅の刃」が証明したように思う。進撃の巨人もそう。ヱヴァンゲリヲンもそうだね。「人が死ぬ状況」が描かれているアニメは、一定以上の人気を集めているように思うんだ。

 フィクション作品はどれも、現実との境界線を曖昧にする要素を含んでいる気がする。中には、実際にそうした作品の真似をしたような事件を起こす模倣犯のような人間も現れたりする。

 作品に罪があるとは言い難いけれども、「影響」そのものに的を絞れば、いくらかの責任が生じてしまっているのではないか。

※人が素手で殴ったり蹴ったりする様子
※人が首を絞める様子
※人が銃を撃つ様子
※人が刃物で刺す様子
※人がバットで殴る様子
※複数人が集団リンチをする様子

 現代において、少子化が加速的に進んでいる最大の要因は、今から子を授かるにはあまりにも「悪影響」が多すぎるということは否定できない事実だろうと思う。

 最近で言うと、東京リベンジャーズかな。「うちの島で」どうのこうのとかいう表現を久々に聞いた気がすると思っていたら、実際に半グレがそんなような言葉を発して殴り合いになったとかいう事件が起きている。

 何をそんなにイキッてるんだろうか。アニメの観過ぎと言われても仕方のない人間。で、どの程度のことで人が怪我をしたり死亡したりするのかということを一切考えずにフルボッコにする若者も後を絶たない。それでいて「殺すつもりはなかった」と言う。

 素人ほど加減がわからないため、内臓破裂をさせてしまうほど殴る蹴るといったことをしてしまう危険性が高い。そういう暴力行為による相手の痛みがわからないというのは、理性とはかけ離れた野生の動物そのもの。

 「そういう社会に子を産み落とすというのはどうなんだろうか・・・」といった不安や疑問を抱かせるのが今の社会だ。何も経済的な問題だけとは限らない。

 他人の不幸という蜜を味わっている場合ではないのに、その上で現実と仮想現実との境目がなくなってしまっては、現実社会がうまく回るはずもない。

 そこで大切にすべきなのは、「自分が受ける影響を理性を働かせて選択する」ということ。これを野放しにしていては、他人に流されっぱなしで、気が付いたらかつての自分とはまったく異なる姿形、全く異なる考え方に染まってしまっているなんてことも起こり得る。

 自粛警察とか以ての外。誰のためにもなっていない。正義のつもりで人を傷付けている。

 何かにつけ自分と結び付けて考えたり行動したりすることが悪いこととは言わないけれども、誰も得していないとか誰かを傷付けてまでやるんであれば、その前に考えないといけない。

 本当に自分の人生と結び付けていいものか。脊髄反射で批判している人たちが特にそう。ただ事実として受け止めるだけではダメなのかどうか。

 他人にばかり意識を支配されていると、どうなってもおかしくはない。関わる人間も、自分が触れる情報も、できることなら自分が受けるであろう影響も、全部自分で選択しないといけない。

 それらに生産性がないと判断したのなら、断るべきは断り、嫌うべきは嫌うってことをしないといけない。いつも誰かが選んでくれるわけではないんだからね。後で悔やんでもいいだなんて思って他力本願で生活しているわけではないんだから。

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