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魔法のコトバ(silent #1/#2)



フジテレビの秋クール木10ドラマ「silent」が始まった。私が今クール1番楽しみにしていたドラマだ。

期待通り、というかそれ以上に、このドラマは私の琴線に触れるものが多かった。まだ2話までしか見ていないのでこれからどうなっていくのかわからないが、特に結論があるわけでもない感想をつらつらとまとめておきたい。

(※以下、ネタバレを含みます)


想いを紡ぐもの


「言葉は何のためにあるのか。何故生まれ、存在し続けるのか。何故この一つの星に、複数の言語が存在するのか。」


これは、高校時代に想が書いた作文の冒頭である。

高校時代の彼の描写から、想は家族に愛され、友人に愛され、そして彼自身も自分の周りの人間を愛している、そんな人物であることが見て取れる。だからこそ、自分と周りの人間をつなぐコミュニケーションの中で、最も大きな割合を占める”言葉”というものに関心を持ち、そしてそれを大切にしたいと思っていたのだろう。

彼は、この作文をおそらく以下のように締めくくっている。

「一つの星にたくさんの言語が存在しているのは、きっとそれを証明するためだ。」

その前に書かれた言葉から推測するに、高校生の想が考えた言語の存在意義とは、「誰とでも、想いを紡ぎ、繋がることができるのだと証明するため」ではないだろうか。


そう結論付けた彼にとって、言葉は、自分と愛する人々を繋ぐ、最も大切なものだったに違いない。そして彼が大切にした紬にとっても、それは同じだった。


好きな声で、好きな言葉を紡ぐ人


紬は、想が言葉を大切にしている気持ちに加えて、音も大切にしている人のようだった。

彼女が想を認識したきっかけは、想の声。退屈だった集会の中で聞こえた想の声に惹かれ、そしてその声で紡がれる言葉の美しさに惹かれた。順序としては、紬の場合、音が先行していた。

その後の描写でも、「電話が好き。声が聞けるから」という台詞や、CDショップで働いている様子から、彼女にとっては”音”も大切な要素だということが分かる。


想と付き合っていた頃にも電話が好きという話はしていたし、二人の1番の共通の話題は音楽だったから、紬が音を大切にしていることは共通認識であった。この認識が後に想を苦しませることになるなんてことは、高校生の二人が知るはずもないのだが、所謂神の視点から見ている私にとって、紬が音を大切にしている様子は見るたびに苦しく、切ないものである。



魔法のコトバ


作中、何度かスピッツの「魔法のコトバ」という曲が使われるが、そのタイトルの通り、言葉とは魔法のようなものだ。同じ言葉でも、それを発する人間や受け取る人間の状況によって、まるで魔法のように意味を変えてしまうのだから。


「うるさい」

このドラマのキーとなる台詞が、この「うるさい」だと思う。2話までで、既に4回も「うるさい」という台詞が使われているが、その意味はどれ一つとして同じではなかった。

1度目の「うるさい」は、雪を見てはしゃぐ紬に対して想が言う台詞。うるさいという言葉の響きとは裏腹に、想の表情も声色も、紬に対する愛情で溢れていて、「うるさい」と言っているのに、なぜか「愛おしい」と聞こえてくるような、そんな幸せいっぱいの「うるさい」だった。

2度目は現在の紬が、大粒の雨の音に対して呟く「うるさい」。これは言葉通り、雨音が大きすぎて耳障りであるという意味の「うるさい」だった。ただ視聴者にとってみれば、紬が煩わしいと感じるこの雨音さえも、もう想には聞こえていないのだと思うと、どこか苦しさを覚えてしまう場面だ。

3度目は、予期せぬ再会をしてしまった想が、何とかして話をしようと引き留めてくる紬に対して、手話で伝える拒絶の「うるさい」だった。実際には紬が大声で話しているわけでも、ましてや想にその声が聞こえているわけでもない。想には紬が何を言っているかわからない。つまりこのうるさいは、「もう俺に関わらないで」という意味の言葉である。紬が何を思い、何を言おうとしているかなんて関係なく、とにかく紬とのやり取りを遮断するための言葉だった。

4度目は、想が母に聴覚の異変を伝える時の「うるさい」。これは物理的にうるさいという意味ももちろんあるが、想の声の震えや必死に感情を押し殺そうとしている表情から、不安と恐怖と、「信じたくない」という思いが伝わってくる。自分でもおかしいことは分かっていて、とても不安で、でもそれを認めてしまうことはもっともっと怖くて、そうやって悩んでいた日々から踏み出すための、覚悟の一言でもあったのだと思う。


「ごめんね」

病気が分かってから、想は何度も「ごめんね」と謝っていた。どうして謝るのか、理由を話すことはないけれど、理由を伝えずに、彼はいろんな気持ちをこの言葉に託していたんだと思う。

地元を離れる時に車の中で母に伝えた「ごめんね」には、病気になってごめん、自分のことで泣かせてごめん、心配させてごめん、きっとそんなやりきれない想いを込めたのだろう。でもそれをすべて伝えてしまえばきっと、「あなたが悪いわけじゃないから謝らないで」と言われることもわかっているから、あえて一言、「ごめんね」と伝えたのだろう。

しばらくして地元に帰ってきたときに紬に言った最初の「ごめん」は、会話の流れ上は「時間だからもう行かなきゃ、ごめんね」と取れるけれど、きっともっとたくさんのごめんが詰め込まれていたはずだ。病気のことを言えなくてごめん。自分の声が好きだって言ってくれるのに、そのうち電話もできなくなってごめん。次に言った「ごめん」にも、何も知らない紬には「急に名前で呼んでなんてわがままを言ってごめん」という風に聞こえるように、聞こえるうちに紬の声で名前を呼ばれたいなんてわがままに付き合わせてごめん、きっとこの先悲しませてしまうけどごめん、というごめんを忍び込ませていたんだろう。


「好きな人がいる。別れたい」


想が地元を離れてしばらくして、紬に送った別れの言葉。1話で紬の友人が「上京して、すぐ女作って速攻で紬を振ったあの佐倉想くん?」と言っているように、想のこの言葉は普通に受け取れば「他に好きな人ができたから別れたい」という意味に捉えられる。実際に紬も湊斗も、周りの同級生たちもそういう意味で捉えていた。

ただ、あれだけ言葉を大切にしていて、人とのコミュニケーションにおいて誰より誠実に見えた想が、紬のためとはいえ嘘をついて別れるという点だけは、少し引っかかっていた。想は、あえて言葉にしないことはあれど、わざわざ嘘をつくような人間には見えなかったからだ。しかし、状況が状況なので、精神的に追い詰められていたことを思えばあり得るのかもしれないな、と納得していた。

しかし2話の最後で、この言葉の解釈が間違っていたことが明らかになる。紬が「好きな人ができたから別れたいって、送ったでしょう?」というと、首を横に振る想は、”好きな人がいる、って送った”と訂正する。「好きな人ができたから」と「好きな人がいるから」の違いが分からず聞き返す紬に、泣きそうな笑顔で、紬を指さす想のその指先は震えていて、これを紬に伝えるこの瞬間、想の中に渦巻く感情に、私は簡単に巻き込まれてしまった。

言葉を大切にしている想は、「好きな人がいるから別れたい」という言葉が紬にどう伝わるか、正しく理解していたはずだ。紬のことが好きだから、泣かせたくないという気持ちと、それでも紬に嘘をつきたくはないという気持ちの両方を救う言葉が、この一言だったのだと思う。紬を悲しませてしまうくらいなら、自分のことなんて忘れてほしいと、そう願って魔法をかけるように、自分の気持ちを隠して紬に送った一言。その魔法を想自身で解いたのが、あのカフェのシーンだったのだろう。すべてが解決したわけではないけれど、あの頃の気持ちを正直に紬に伝えられる程度には、想はいろいろな苦難を乗り越えて強くなったのだと思う。ここまでは紬との再会を拒絶し、対面で会うことにも否定的な想だったが、紬に向けてあんなにもやわらかな表情で笑いかけるのを見て、彼自身はきっと変わっていないのだと安心した。現在の想がどんな環境で生きているのかについての描写は今のところないけれど、今もなお絶望に打ちひしがれているわけではないようだ。


紬にとって大切なもの


この文章の冒頭で、紬は”音”を大切にしている人間だと述べたが、2話を見て紬が大切にしているのは音そのものではなく、非言語コミュニケーションなのではないかと思い始めた。

「筆談だから会って話すのもLINEでも変わらない」という想に対して「顔見て話したい」と答える紬は、たぶん言葉以外のところから感じ取れる相手の空気を大切にしたいのだろうと思う。おそらくメールより電話が好きなのもそういった意味合いで、相手の声色や間の取り方、背後の音など、会話における言語以外の要素を確認することで、より精神的に近い状態でコミュニケーションを取りたいのだと思う。想は紬が自分の声が好きなのだと思っていただろうが、きっと紬が「声が好き」と言った根源には、想の人柄が滲み出る部分だから好き、という意味が含まれていたのであって、それはつまり想のことが好き、ということなんだろう。紬は電話ができないからといって想を好きでなくなるなんてことは絶対になかっただろうし、むしろ病気と向き合う想の姿を見て、もっと彼のことを好きになったはずだ。何故なら彼女は、辛く苦しい恋愛をしたとしても「好きになれてよかった」と思いたいと答える人だから。

だから想が病気のことを伝えてさえいれば、二人は幸せになれたはずだと思わずにはいられない。けれど、想の「悲しませたくない」という気持ちも痛いほど分かる。「声が聞けるから電話が好き」という紬の笑顔を曇らせてしまうこと、自分を案じてきっと泣かせてしまうこと。それは紬に感じさせたくない負の感情であり、自分のことで悲しむ紬を見ることは、想自身にとっても耐え難い苦痛になる。それなら忘れてもらいたいと思ってしまった想を咎めることなど、誰にもできない。愛情深い二人が、その愛情ゆえにすれ違ってしまったことは、ある意味必然だったのかもしれない。


"当たり前”のパラドックス


このドラマを見ていると「当たり前なんてものは存在しないんだな」ということに気づかされる。目の前の人と会話ができること、友達と連絡が取れること、何気ない生活音が聞こえること、明日もまた会えること。そのすべてが当たり前ではないはずなのに、私たちは当たり前だと思って暮らしている。当たり前ではないことが当たり前のように起こり続けていることが、私たちにとっての当たり前だからだ。

でも、もしかしたら明日音が聞こえなくなるかもしれない、世界が見えなくなるかもしれない、今日会えた人と、もう二度と会えなくなるかもしれない。その可能性は常に、そして誰にでも平等にあるのだということに気づく。そうすると、日々の当たり前でない当たり前が途端に愛おしく、大切なものに思えてくる。このドラマが気づかせてくれる日常生活の小さな奇跡の連続を、蔑ろにせず丁寧に生きていけたらいいなと思う。紬が「好きになれてよかった」と思いたい、と言っていたように、結果によって過程を後悔するのではなく、過程を大切にすることで、どんな結果も強く受け止め、認められるような生き方をしていきたい。





という何の結論もオチもない感想だが、とにかく再会を果たした想と紬がこれからどうやってまた交わっていくのか、その過程で何を想うのか、あと数か月、楽しみに見守っていきたいと思う。


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