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だらしない母はいつも妹のように私に甘えてきたが、時折、母らしい顔をすることがあった。この時も母は、母の顔をしていた。だからこそ、私はもう二度と母がこの家に帰ってこないのがわかった。村中から''売女''と揶揄された母は私に別れの言葉を残していった。 「女の涙は飾りじゃない。だから、然るべき時に使うの。そうやって強かに生きなさい」 両肩を掴み、母は私に向かってわかったかと念押しをした。 それからキャリーバックのキャスターが石畳の上を転がっていった。雨音のようだったが、そ
朝起きて、まず煙草を咥える。 それからカーテンを開けて立ち上がる。キャバクラでもらったライターはベッドと柵の隙間に挟まっているから、手を突っこみ拾い上げたら火をつける。長く吸うと先がちりちりと静かに燃え、彼は朝日を浴びながらそのままベッドに仰向けで倒れ込んだ。 天井に向かって昇ってゆく煙の先を彼は見ている。倒れた振動でも胸に肺は落ちなかった。 彼はその日の行く末をこうして占う時がある。そういった日は大抵、なにか楽しみな予定がある日だ。 梅雨に入り、連日ぐずついた天
「お買い上げありがとうございました。おやすみなさい」 老婆に雑貨屋の店主が頭を下げる。家に帰った老婆はラジオを聴きながら買ってきた鉢植えに月下美人の種を植えた。 老婆の家の庭の前を老人が通りかかる。皺と血管が幾つも浮かぶ手を引くのは黒い犬で足取りは鈍い。 犬と目が合った学生は自転車に跨り、総菜パンを咥えている。 学生たちが帰った進学塾の明かりは消え、講師たちが家路をたどる。男の講師が女の講師を飲みに誘うが断られてしまう。 誘いを断った彼女は姉夫婦が営む珈琲屋へ向か
フラッシュバック程、酷くはない。だが生活に躓くと、根付いた疎外感や絶望がふっと芽吹く。どうやらその周期がやってきたようだ。 「その曲、好きなんですか?」 例えば幼い頃から頼りにしてきた、縋ってきた曲を君が聴いていたとして、誰かに興味を持たれたとする。 好きと応えるとその人も好きと答え、両者には接点が生まれる。 その接点は相手にとって接点でしかない。が、過去の傷を優しく撫でてくれるような曲だから思い入れが違う。つまり、接点がやがて接線になるんじゃないかと期待してしま