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非日常と非現実の一日

近所に住む一人暮らしのその人は、ホームに入所している妻の元に、自転車を30分漕いで毎日お見舞いに行く。
時には朝から掛かりつけの病院で自分が診察を受け、その足でホームに行く。
昼前には到着し、妻が昼食を摂るのを見届けて、午後2時過ぎにホームを出る。自分の昼食は家に着いた午後3時前。
一年前に私が知り合った時、その人はそんな生活をもう何年も繰り返していた。
半年前、狭い路地を自転車で走っていて障害物を避けようとしたその人は、手元が狂って転倒しあばらを折った。
医師からは入院を勧められたが、頑なに断った。入院したら妻を見舞えない。不自由な脚のせいで家で暮らせなくなった妻がホームに入所する事になったとき、夫は妻に約束したのだ。

「必ず毎日会いに行く」

あばらを折って以来、日を追うごとにその人が弱っているのは誰の目にも明らかだった。時には足元もおぼつかない様子になりながら、それでも自転車を漕いで妻の元へ向かった。
医者も、妻のホームの職員も、近所の住人たちも、自分が倒れたらどうするのかと止めようとしたが無駄だった。
妻がホームに入所した日から、その人の人生は妻の元に通うことに費やす為にあった。

部屋の前に自転車があれば在宅。なければ妻の元。いつしかそれがその人の生きている証になっていた事に、今朝気付いた。

早朝、台所の灯りが点いているのに、新聞受けに新聞が3日分溜まっている。
玄関前には自転車が止めてある。
その様子を見てチャイムを何度も鳴らしながら、私はほとんど確信していた。

「○○さん、○○さん!」
ドンドンドンドンとノックする。
何度か繰り返したが返事が無いので、敷地の縁を巡って裏手へまわる。レースのカーテン越しに目を凝らすと、果たして、電話の前に倒れているらしい人影が見えた。

そこから先は、ドラマを見ているようだった。
サイレンを鳴らして、アパートの前の狭い道に救急車と消防車が駆けつける。
救急隊員が台所の窓枠を全力で揺さぶり、ロックを外す。
アルミの柵を止めたネジを外して侵入し、内側から玄関の鍵を開ける。
数人の救急隊員が部屋に入り、何度も名前を呼ぶ。
やがて警察がやってくると、いつの間にか救急車と消防車は去っている。
知人でもある民生委員もやってきた。

最初は救急隊員、続いて派出所の警官、そして警察署の刑事。第一発見者の私は入れ替わり立ち替わり状況を聞かれる。
部屋の中には勿論入れない。気がつくと、雪の降る中に2時間いたのだった。

午後は、キャリアコンサルタント2級の実技試験。
ロールプレイで、架空の人物を演じる相手の相談を受ける試験だ。
仕込まれた罠を見つけて、いかに攻略するか。非現実の世界の問題に現実として向き合う事に、今日はことさら捻れた余韻がつきまとう。

試験が終わって、とんぼ返りでお通夜。

目をつむれば、救急隊員や警官の姿や声が蘇る。
今日はなんだか、自分の足で立っている気がしない。

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