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「ありのままの自分」をありのままに演じる空間~「意味の与え合い」としてのライブ~

BLUEGOATS『BLUE ENCOUNT』(2023年1月22日(日) 於 新宿Marble)に参戦しての感想を、つらつらと。

「共同構築物」としてのライブ~表象されたものから見て~

こういう「The ライブハウス」のような場所に入るのは、いつぶりだろうか。
「階段を下りて地下に入る」
これだけのことでも、自分が先程までいた喧騒から隔離され、明らかに別種の"喧騒"に身を沈める気分になる。
これはまさに、馬場(2021)が言うところの、「ライブハウスにおける「内側」の強調」と呼ぶに相応しい。

「ライブハウスという「内側」の「空間」では,建築空間にあるべき「外側」が不問にされ,また意識されることはない。すなわち,外観を持たない「内側」だけの空間がライブハウスの全てであり,ファサードを持つ劇場やコンサートホールとはちがって,外観の様子がほとんど頭に浮かばないのだ。アイドルのライブが行われるライブハウスは,大抵の場合,飲食ビルの地下などにあり,それゆえ建築的「外側」と「内側」がコインの表裏のように対照しない。ライブハウスを俗に「箱(ハコ)」というが,装飾のない機能だけが剥き出しになった内部空間を見渡せば,まさしく字義通りの「箱」であることが納得できる」

馬場 2021, pp.10-11

外観との圧倒的な隔絶によって、その内側がより一層際立つという構図。
それ故に、地下の"喧騒"に入った瞬間に、自分がより「世界から切り離された存在」として知覚され、「この空間での出来事に没頭しつつも、それを客観的に捉えようとする、ある種のアンビバレントな状態」に落ち着くことになる。

「ライブハウスに居ることは,無機的な黒い箱の内部に自らの身体を置くことであり,そこで生起する出来事は外側とは無縁の閉じた経験となる。その意味で,ライブハウスは没場所的である」

同, p.11

「没場所的」であるということは、単純に「その場所に意義を見出さない」ということを指さない。生物としての本能でいえば、「通常想定されていない環境下に置かれた」わけであるため、逆に言えば、諸器官はより鋭敏になっているとも考えられる。そして、それ故に「没入しながらも、センサーは敏感になっている」という両義性を孕んだ状況が生まれるわけである。

没場所的な空間でどうにかその意義性を見出そうとする、ある意味「混乱」した状況の中、周囲のスタッフの動きやNOMADSの高揚感を少しずつ察知しながら、「この空気感の急激な転換」に対する期待感を高めていくことになる。

常連であろう方たちが談笑している姿をぼんやりと眺めている中、BGMとライトがフェードアウトする。
明確に「内側」が切り出された空間で、その一瞬が切り取られる。
最も自身を「自分」として意識した瞬間に、彼女たちが現れる。

「「内側」という「没場所化」した空間が,アイドルの登場によって,いままさに出来事が生起する「場」へと変貌するのだ。ファンの関心は舞台へ釘付けとなり,反復不可能で,複製不可能な,一回性のライブシーンが立ち現 れることによって,心身を沈潜させざるを得ない状態となる」

馬場 2021, p.11

各曲の構成や、そこでの振り付けについては、またそれぞれの楽曲考察として記事化していきたい。
ここでは、この「内側」の中で思うがままに感覚を揺蕩わせて得られた「イメージ」について触れる。

まず、彼女たちのパフォーマンスについて。
YouTubeのライブ映像を見ていても伝わることではあるが、「ダンスパフォーマンス」というよりは、「演劇」に近いものがある。
これは、彼女たちのアイドルとしてのコンセプトに起因するものであるとは思われるが、より直接的に言えば、「彼女たちの生の体験・感情の投影」であるが故のスタイルではないか。

映像では、それぞれのメンバーにフォーカスが当てられている構成になっているため、曲全体としての「演技」を観ることができるのは、やはりライブならではの醍醐味であるといえる。
とはいえ、メンバーそれぞれが本当に各々の演技を見せているため、そのすべてを1回で把握しきるのは非常に困難である。
だからこそ、何回も足を運ぶことの意味が強調されるわけであるが、先述の通り、ライブは「反復不可能な一回性のシーン」であるが故に、「完全に理解する」ことの対極に位置する。
そうした一回性と「理解への欲求」との相克を、「沼る」と表現することもできよう。

NOMADSそれぞれが、メンバーそれぞれの演技と歌唱に没入し、メンバーそれぞれが、自身の原体験やそこまでの想いを憑依させて、NOMADSに対して感情をぶつける。
そうして、お互いにとっての「一度きりの経験」を、それぞれに刻み合う。
この目に見えないが、圧倒的なありあり感を携えた感情のやり取りが、「内側」に複製不可能な「意味」を生じさせることになる。

「オーディエンスと パフォーマーであるアイドルは相補的に融合しながらリアルタイムな直接的経験によってその内部空間を「生きられた場所」へと変えていく。
その意味において,ライブハウスは「物理的空間」というよりも,「状況的空間」と言った方が妥当であろう。 それは「空間=space」ではあるが「場所=place」ではなく,音楽と共に立ち現れては消えていく流動的でかつ瞬 間的で状況に応じて生成する遊びの「場=scene」なのだ。アイドルの魅力は第一にライブにある。言い換えれば,ライブハウスこそが,アイドルの「居場所」となる」

馬場 2021, pp.11-12

NOMADSと彼女たちが、「生きられたScene」の中で、その感情を大いに遊ばせながら、今いる"ここ"こそが「居場所」なんだということを、無意識的に自覚する。
没場所的であるライブハウスだからこそ、そこで生み出された「居場所」という意味は、より強くそこに刻まれることになる。

ここで生起していた一回限りの出来事は、実は「BLUEGOATSーNOMADSーライブハウス」という三者による「意味の刻み合い」という現象として捉えることもできるのである。

「アイドルのいるライブハウスという空間は,物理的には均質な広がりを持っている。そこにファンが関与することで空間に意味が生まれ,方向性が見出されて,「状況的空間」へと変化する。わたしたちは,すべての感覚を総動員してこの変化を愉しみ,遊び,戯れているのだ」

馬場 2021, p.12

こうやって意味が刻み付けられた「居場所」を強く意識しながら、ありのままの自分を彼女たちに投げ出し、ありのままの彼女たちを受け止める。
この「ありのままを遊びきる」ことが、BLUEGOATSのライブでしかできない経験だと感じている。

「共同構築物」としてのライブ~“意味の与え合い”という観点から~

こうして、BLUEGOATSのライブというのは、彼女たちのスタンスに起因する「ありのまま」感を媒介として、NOMADSとの「意味の与え合い」という共同構築物としての性質を強く帯びることになる。

このことを、ゲオルク・ジンメルの「感覚の社会学」をもって説明しているのが、池田(2021)である。

「人間は他者にとっては,他者が彼を見たからといって,けっしてすでに完全にそこにいるのではなく,むしろ彼もまた他者を見たばあい,はじめてそこに存在する」

ジンメル 1994, p.250

このジンメルの指摘を、池田は「ファンが“見るだけの存在”であれば,そのファンはまだ“存在している”といえない。ファンの視線は,アイドルによって見返されなければならない。アイドルによって“見られる”ことによってはじめて,“ファンとしてそこに存在する”のである。すなわち“視線の相互性”あるいは“まなざしの交差”こそが重要なのである(池田 2021, p.168)」という形で理解する。

これを今回のライブに引き付けて言えば、BLUEGOATSが「ありのまま」を表現している様を、我々NOMADSが受け止めることによって、彼女たちの存在は一定担保されることになり、そこから更に彼女たちが我々に視線を配ることによって、NOMADSの存在が確定されることになるのである。
そして、先の馬場の指摘を踏まえるのであれば、そうした「存在の支え合い」が起きやすい場所こそ、没場所性を有したライブハウスであることもまた言えるのである。

その上で、池田の指摘にさらに一つ加えるのであれば、BLUEGOATSのライブでは、「視線/まなざし」だけがその媒介物ではないと考える。そしてそれはやはり、彼女たちのパフォーマンススタイルに起因するものでもある。
どういうことか。
彼女たちは、ライブ中に積極的にNOMADSに視線を配っていたり、いわゆるファンサをしているわけでもない。それでも、「互いの存在の確定」がありありと実感できるのは、「互いに対しての"信頼に近い期待"」が根底にあるからだと思われる。
つまり、彼女たちは「こういう気持ちを伝えたいし、伝わっているはず」という"信頼に近い期待"を我々に投げかけ、それを受け止めている姿を見て自身の存在を確定させている一方で、我々は、それぞれに抱いている彼女たちへの"信頼に近い期待"が届いていると信じることによって、NOMADSとしての自己を規定できるようになっている、と捉えることもできるのではないかということである。

「まなざしの交差」と「信頼の交差

この主客双方の交差によって、このライブの意味性が確立されているように感じられる。

「場の揺らぎ」としての特典会

ライブ終演後には、「特典会(チェキ会)」が行われる。
ライブにおいても、「自身と彼女たち」という、クローズドな関係性は一定構築されているわけであるが、それはあくまでも象徴的で主観的な意味合いが強いことは否めない。
その点、チェキ会というものは、よりその関係性を意識しやすい場となっている。

「“アイドルは自分だけに目を向けて,自分とだけ会話をしてくれている”ように体験される。これは結果としては,アイドルを“独占”している時間である。特典会は一応オープンな場なのだが,1対1の関係のために,そのときだけ切り取られる。ファンがアイドルとチェキを取っている時間は,実は2人で共同して作りだす楽しみの時間であるともいえる。したがって,チェキの撮影の場面は,“第二のライブ”といっていいかもしれない。その場合,物販・特典会の場は“第二のライブ会場”である。この場合のライブは,ファンとアイドルの 2 人だけで作りだすものである」

池田 2021, p.169

先に、「互いに意味を与え合う行為がライブである」という話をしたが、その観点で言えば、そこからさらに2人が切り取られることによって、その「まなざし/信頼の交差」がより直接的なものに変化するチェキ会は、ライブの部分的延長と言えるということである。

しかも、ライブというのは、まさにその体験という性質上、一回限りの現象としてしか立ち上がってこないのであるが、チェキというものは、その「意味の与え合い」という貴重なやり取りの「成果物/根拠」として、リアルに残るモノとして生成されることに、その大きな意義がある。

「いわば応援の積み重ねによってアイドルは存在が可能であり、その積み重なる時間をモノとして空間の中に可視化するのがチェキなのである」

上岡 2021, p.153

互いの信頼の交差の結果物、それを共同で生み出そうとするライブ会場
チェキ会をそう表現することもできるのではないか。

加えて、今回の特典会においては、ライブから特典会への移行によって、ライブハウスという「内側」に込められた意味が揺らぐという現象が際立っているように感じられた。
つまり、これまで彼女たちがそれぞれの「ありのまま」を表現する舞台として存在していたステージ上に、我々NOMADSが入ることによって、「「柵」というある種象徴的な仕切り越しでの共同構築」が、「ヨコ並び的な関係性を意識する形での共同構築」にそのフェーズを変化させているのである。

「チェキに写る両者の姿は親密な共同作業の末にあるヨコ並びの関係性でありながら、同時にファンがアイドルを見上げるタテの関係性にも固定されているのではないか」

上岡 2021, p.153

この上岡の指摘は、非常に重要である。 ここまで、BLUEGOATSとNOMADSの水平的な関係性を強調するような書きぶりになってしまっていたが、やはりこの「憧れ/好意/その他ポジティブな指向性」を、BLUEGOATSという「アイドル」に対して抱くという、垂直的な関係がその基底にあってこそ言える話であるということには、自覚的でなければならないと考える。

ものごっつ個人的な話をすれば、「天下の大将軍を目指している李信を、全員で支えながらともに駆け抜けていく飛信隊」的な関係性だと思ってるわけです。

ここから先は、初めて生で見たメンバーの感想。

お昼寝大好き ほんま・かいな

感情の表出ではなく、「込める/注入」の表情にも魅力がある稀有な存在

ライブに限らず、多くのパフォーマンスにおいて、演者が何かを伝えようと表現している様にこそ、魅力が一番感じられやすいのであるが、かいなさんの場合、もちろんその良さも十分あることは当然として、「こういう気持ちを込めたい」という「願い/祈り」のような表情に、ものすごく鮮やかな個性を感じたことに、非常に新鮮な驚きがあった。
それは、ステージに出る前にあらかじめ決められた表現の枠を超えて、即興で生の感覚を伝えようとする彼女の姿勢なのかもしれない。

フロアを大爆破 ダイナマイト・マリン

直接的な心情の吐露ではなく、文章や歌唱という媒介を通じての色彩が豊か。
当然我々が見ている一面からだけでの捉え方となるが、普段感情の起伏の激しさで何かを伝えたりするタイプではない彼女ではあるが、一方で、マンガや作詞、歌唱表現という「伝えるための媒介物」が与えられた瞬間、彼女の気持ち・想いが煌びやかなほどに溢れ出してくる。
表現することにおいて、一番饒舌なのは彼女なのかもしれない。

笑顔ビーム チャンチー

笑顔にも、200色あることを教えてくれる。
どんな場面でも、笑顔でいることが多い(ように感じる)彼女。
しかしながら、「私は大学を辞めた、友達のせいで」でも十二分に伝わってくるように、当然のことながら様々な葛藤を抱えながらも、ひたむきに果たそうとするもの目がけて突き進んでいる。
そうした体験・苦悩から出てくる笑顔が、なんと繊細で綺麗なことか。
彼女の笑顔は、場面場面でその色を細かく変化させる。
多種多様な笑顔によって、自身を表現できる存在
それを見分けられるNOMADSでありたい。

足攣るほどの天真爛漫 オオハシ

YouTubeでの彼女の振る舞いや、インタビューでの受け答え、SNSで見られる様々な表情・言動など、そのすべてにおいて一分の隙もないほどに、素直で天真爛漫な雰囲気が漂っている彼女。
ライブにおける彼女の表情や表現の変化も、その一瞬一瞬を無邪気に味わっているように感じつつも、少し背伸びしてチャレンジしようとしている真剣さも織り交ざって、彼女にしかない模様が浮き上がってきていた。
毎回のライブでの変化に期待を抱かせる存在、ワクワクしかなかろう。

緊張と愛らしさの共存 ソンソナ

跳ねるような表現と表情。
彼女には、自分の特性・強みを十分に理解した上で、あえて無意識的に発散させようとする凄みがある。
誰よりも緊張を表面に湛えながらも、最大限の演技でしっかり場を完成させる能力の高さ。
そうした、ある意味フラジャイルな状況と有能さを、絶妙にバランシングさせてしまうところに、多くのNOMADSが惹かれているのかもしれない。

引用・参考文献

・池田 太臣(2021)「「視線の相互性」をもとめて:ライブアイドル体験の「感覚の社会学」的理解」『 甲南女子大学研究紀要』No.57, pp.163-170.
・上岡 磨奈(2021)「アイドル文化における「チェキ」:撮影による関係性の強化と可視化」『哲學』No.147, pp.135-159.
・馬場 伸彦(2021)「地下アイドルの現象学:「状況的空間」としてのライブハウス」『甲南女子大学研究紀要』No.57, pp.7-14.
・ジンメル・ゲオルク(1994)『社会学』(下), 白水社.




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