思考の言語化は大切、だがこれは言語化の名に値するか

おろかなあたし、おろかなおまえ。そういって、放り投げてしまうのは、生活者のすることじゃないさ。
あたしの望みは少しでもマシな生活者の称号を手に入れること。
人間を人間たらしめるのはほんもののコミュッニケイションよ。誰か判定をして下さらないかしら、はやく。時間は、そう沢山はないのであった。

何時、慈しみ深く荒れ。礼儀を欠くことはどこに源泉があるのか、というと、いきすぎた文化相対主義の責任に、帰したくもなるが、ショートカットの生霊としての己をそこにみないというのも、フェアじゃないわけだよ。あまりいろいろなことを簡便に済ませようとするのは、「ださい」という評価が正当でありうる唯一の対象だ、とあたしなんかはおもう、そういう哲学を手に入れて今いるってのに、かすのような自家撞着をみいだしてしまうってのはなかなか切実に疲労を呼び覚ます問題だ。同族嫌悪というやつではないの、とささやく声がどっかそこらへんから、する。

レッテルは便利だ、分類のためにではなく、貼り付けた瞬間にそこから零れた側面が目に付き始めるから。多角的視点。それは、だから複数人の共同でいいんでないの。個のうちに養おうとしなくてもさ。何を目指しているんだ?スーパー・ヒューマンかトンボさんか?自と他が異なることの、可能性に開かれておくためだけにも必要とする?公教育は苦しみを上手に避くるべくあるべきか。理念として。花霞のように、多様に美しい理想も澄んだ精神たちによって盛られたに違いないけれど、出発点が一定範囲に居住している人間存在の統合であってみれば、軋みをたてるのは当然ではないだろうか。公教育、それは世界最大のステルスマーケティング。思念は矢よりも迅く、時の流れよりも強いのか。

ところで決断力を錬成する訓練ってしましたか?それは家庭学習の一環かな?民主主義、文化相対主義を教え込むなら同時に絶対要るやつだと思うの。近頃の、お話し合いの悲惨な現場ご覧になって?(あたしの周りのみんなが底抜けにやさしいだけ?)もう「どれでもいい」「なんでもいい」というのは止してくれよ・止そうよ。意見を持つということの、現実的な必要さ、便利さ。性格に帰されることになるのかな、自己主張タイプとか、いっちゃったり。逆にこう自分の意見を持つということが神聖視されすぎている節もあるのかも。どうでもいい場面で伝家の宝刀は振るわないぞ的な。意見を表明しさえすれば通せる世の中になっても不思議じゃない。ん、別にそれは悪ではない、ただ考えなしのビッグ・ヴォイスの出現に抗体がない。それはうちらの世紀が乗り越えてもよい弱点のはずだ。社会の脆弱性、なんて言葉にしてみるとその時点でフィクションに見えて仕方がないけれど。上手に誑かされることが目標であってたまるかよ。

検討って意味あるのかな。金の話?経済効率は悪ではない(戒め)。偏るのが面白くないだけ。例えば理想への偏重も同じように愛せない雰囲気をもつとすれば。でも綺麗事に対するアファーマティブなアクションは肯定されるかもしれない。現状を鑑みるに。

簡単なことはほんとうに何一つない、正しく成果物として掴み出されたものの、そのうっかり傷つきたくなるほどのたくましくありがたい発光の背後には、正しく丘陵地の道程がある、なに、結局恐ろしく素直な小林秀雄の読者であった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?